※聖書の一節を紹介しています。讃美歌が流れますので音量にご注意ください。
このページは月の第一、第三火曜日に更新する予定です。
※聖書は、「聖書 新改訳2017」(©2017新日本聖書刊行会)を使用しています。)
「私は世のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくありなさい。―」 列王記第一2章2節
四国の公務員Aさんは、〝結婚式翌日、妻の弁当を作る約束していたのに炊飯器のスイッチを入れるのを忘れいて、それが分かった瞬間、妻のビンタが飛んできた・・“そうです。新婚早々?どれだけきつい性格なの・・・と不思議に思っていたら、男性もDV被害者になるという記事でした。妻の暴力は次第に常習化しますがAさんはDVとは思わなかったそうです。後にAさんは、自分がその立場にあることを自覚するようになり・・・離婚に至ります。※今朝の新聞より
DVは、女性が被害者・・・というイメージが強いのですが男性の場合もあります。かつて妻が夫より立場が強い場合〝夫は妻の尻に敷かれている“といわれましたが、程度によるでしょう。身体や心を傷つけてよいはずがありません。男性・男児の心身の健康、幸福に目を向け、ジェンダー平等を促す日として11月19日は、「国際男性デー」なんだそうです。そういえば、以前は性犯罪の被害者は女性でしたが、今は男性の被害者も想定されるようになっています。
冒頭の聖句は、旧約聖書に記されたダビデ王の晩年、生涯を終える日が近づいたとき息子であり次期王になるソロモンに語ったものです。今から約三千年も前の時代ですから、現代と人権意識、夫婦関係の感覚は異なるかも知れません。でもダビデの男らしく・・というのは、武功を上げる、人の上に立つ、人を屈服させる強さを持つ・・・ことではなく、神が男として造られたのだから、知恵や力はそれを必要とする人のために使い、弱い立場、女性に対しては守り愛するときに男らしさを発揮する必要があると考えたのではないかと思います。詩を作り、音楽を愛し、勇敢で友人を大切にするダビデの男性観は、決して粗暴なものではありませんでした。
冒頭の聖句の次節には、〝あなたの神、主への努めを守り・・・“とあって、王である前に神の前に立つ一人の人間であることを語っています。王としての努めは、民衆の上に立ち単に国を治めるだけでなく、神から託された神への努めなのだということでしょう。
男性も女性も神から与えられた性別の違いがあります。ですから男の強さ、女の強さ、男の弱さ、女の弱さがあります。似ているけれど違うところがあるわけです。
〝らしくありなさい・・・・”は、個性を否定するものではありませんし、自由を制限するものでもありません。
ダビデは、悲しいと泣きじゃくり、嬉しいと踊り、辛く苦しいと神に切に祈りました。男だから・・と構える様子は見られません。神から与えられたものをその用途にふさわしく用いることによって、男も女も本来の自分らしさを取り戻すことができるのではないでしょうか。
2024年11月19日(火)更新
「生れたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」
ペテロの手紙第一2章2節
孫が生まれたので実に二十数年ぶりに新生児の沐浴や授乳を体験しています。「こんなに小さかったっけ…」と新鮮な感覚です。私の子どもは三人とも殆ど母乳で育ったので哺乳瓶でミルクを飲ませた記憶があまりないのですが、今回改めて哺乳瓶で授乳の機会を得ました。新生児が乳首を求めて口を開け、その真剣な吸いっぷりに驚きます。もっとも水も他の食物もまだ口にできないのですから、赤ちゃんからすれば乳を慕い求めるのは当然なのでしょう。冒頭の聖句を思い出しました。
人は成長するにしたがっていろいろな物を口(異なる価値観・体験)にするようになります。食わず嫌いはいけないと危ない領域までチャレンジするかも知れません。確かに多様性の時代ではありますから、視野を広げて価値観を共有することは他者との共存に必要なことかも知れません。でも、すべてのことが私たちの成長に益になるわけではありません。様々な情報、考え方を取捨選択していく必要があり、そのために私たち自身の成熟が欠かせません。
冒頭の聖句に〝純粋な霊の乳・・・〟とあります。聖書のことばは、私たちを一人の人間としての成長を育みます。救いについていろいろ語られるものもありますけれど、何からの救いで、どのような状態になるのが救いなのかも聖書は記しています。ある人にとっては、味気ないものかもしれないし刺激が足りないと感じるかも知れません。けれども純粋とは元来そのようなものではないでしょうか。“純粋”に関して聖書の欄外注には、別訳で「偽りのない、みことばの乳」とあります。キリスト教について博学な人よりも神を深く信頼して生きている人の方が魅力的な人に感じます。純粋なものを求めている人は、きっと心もきよめられていくのでしょう。
2024年11月5日(火)更新
ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
ヨハネの福音書3章4節
体調がよくない時が続いた(多分真性多血症の倦怠感)のと、娘が里帰り出産のために家にいて、娘と自分の通院やあれこれしているうちに・・・気づいたらまた更新(10月第一火曜)を忘れていました・・・・。もし気づいた方がいましたら申し訳ありません。
先日、娘が出産し元気な男の子が生まれました。私にとって初孫、私はおじいさんになりました。私たちの子どもが生まれた時と違い、今は幼児期からスマホが身近にあります。先日イオンに行ったら売り場にランドセルがありましたが、価格が昔の頃の三倍近くもして驚きました。今この時代が子育てに優しいのかそうでないのか良くわかりませんが、新生児は、次の時代を作るいのちでもありますから未来を感じます。
さて、冒頭の聖句は、当時議員であったニコデモがイエスのもとを訪ねて来た時にイエスから「・・・新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」といわれたことに対して、ニコデモが率直な思いをつぶやいたものです。老齢の域に達していたであろうニコデモが”新しく生まれる”・・・というイエスのことばに”赤子として生れなおす”とイメージしたのは滑稽に感じるかも知れません。もしイエスが「生き方を変えなければ…」と言われたなら、このような反応はしなかったでしょう。「新しく生まれなければ・・」といわれて、質問の意図がすぐにわかる人はいないと思います。イエスは、続けて「人は水と御霊(みたま)によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」と、はっきり「入ることはできない」といいました。続けて、新しく生まれるとはどのようなことなのかの説明をしています。聖書は、ニコデモがイエスのことばを理解したとも、信じたとも記していませんが、恐らくイエスのことばがニコデモの心に残って反芻していたのでしょう。彼は、後に勇気ある誠実な信仰者として聖書に出てきます。
ニコデモは、当時、聖書知識が相当あり宗教生活も市民の模範とされるような人物でしたが、それでも神の国を見ることも、入ることも出来ない・・・といわれてしまいました。人間の神理解の知識や宗教活動は人間の考える”神の国”には有効かもしれませんが、真の神の国は、人の知識やいわゆる善人の生活態度で入れるようなものではなく、心のきよさ、純真さが神に認められるようなものでなければなりませんでした。それでイエスは、”新しく生まれなければ…”といわれたのです。具体的には、肉の知識、経験を通して神を信じるのではなく、神の霊に導かれて罪を悔い改め、新しくされて生きることでした。イエスは、別の個所で”子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることは出来ません。”’(マルコ10:15)とも言っています。
神の国は、この世の知恵と功績、肩書がまったく役に立たないところです。一方で神に対して素直な心のある人なら、幼子であっても老人であっても・・・誰もが入ることができるところです。
2024年10月15日(火)更新
「それはそれとして、あなたがたもそれぞれ自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。」 エペソ人への手紙5章33節
「夫は、妻は、わかってない」、「夫婦脳」、「夫婦がより仲良くなる七つの習慣」、「夫婦という他人」、「夫に死んでほしい妻たち」、「定年夫婦のトリセツ」、「夫婦の壁」、「うまくいく夫婦、ダメになる夫婦の心理」、「夫とはしたくない」・・・これらは本のタイトルです。夫婦に関する書籍は沢山あります。私は何冊も読んだわけではありませんが、結婚生活のズレを男女の思考の違い(脳)から説明するものや、本人の性格、勝手な思い込み、発達障害を疑うものなど様々な角度から光を当てているように思います。実際、夫婦の生活に何らかの不満を抱いている人は少なくないように思います。〝愛し合う”ために一緒になったのに、うまくいかないのは何故でしょうか。
冒頭の聖句は、夫婦はただ愛し合うことが大切なのではなく”愛する”ことで”敬う”といった麗しい関係性が生まれることに触れています。これは、夫と妻が神の前に同じ人間でありながら、それぞれの役割があるということをうまく表していると思います。
聖書には”あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい”とあって愛すべき人の範囲が広いです。でも冒頭の聖句は、”自分の妻”ですからかなり限定されています。そもそも愛した(好きだ)から結婚したわけです。自分が一番・・という自己愛は誰もがもっている罪の性質で、男、女関係なくどちらにもあります。結婚生活を困難にする要因の一つは、相手の事よりも自分の利益を優先するからですが、恋愛で熱を上げているうちは、控えていても結婚して生活が落ち着いてくれば地が出るのが普通です。でも、どちらかといえば男性が自分の都合の良いように女性を理解し、従わせようとしている例が多いように思います。”愛されなければ満たされない”のは男女に関わらず同じです。ならば”自分と同じように妻は、大切な存在”と思うところから二人の関係を見直せばよいでしょう。自分の事を大切に思ってくれる人を尊敬するのは自然なことです。
神の前では互いに欠けた存在です。でも愛は、その凹みをカバーします。凹みはなくなるわけではありませんが、それほど気にならなくなります。愛されることを求めるよりも、愛することを求めましょう。神が知恵とその力を与えて下さいます。愛し合った二人なら、回復は不可能ではありません。
2024年9月29日(日)更新
※第三火曜(9/17)の更新をすっかり忘れていました。
「私は自分の義を堅く保って手放さない。私の良心は生涯私を責めはしない。」
ヨブ記27:6
昨日、ナチスドイツ時代、宣伝省大臣としてヒトラー神格化とナチズムの浸透に大きな力を発揮したゲッベルス(1897-1945)のドキュメンタリー番組を見ました。私は、何故ユダヤ人があれほど迫害されたのかぼんやりとしかとらえていませんでしたが、ドキュメンタリーによると、当初小さな政党だったナチ党が次第に勢力を伸ばし第一党になりますが、政策で思うような結果がでないと国民を統合するための一つとしてユダヤ人排斥があったということでした。戦争により国は疲弊しますから政府に批判が向かないようにする目論見もあったようです。彼は、個人的にもユダヤ人に対して良くない印象を勝手に持っていましたら、権力を持った時に拍車がかかったとも言えると思います。彼は巧みな演説とあらゆる手段で民衆をプロパガンダして国民をある方向に向かわせます。
番組を録画していないのでテロップに流れた次の文がどのくらい正確かわかりませんが、概ね「この戦争に勝てば、我々のしていることは許してもらえるだろう。この戦争に負ければ、我々のしていることは許してもらえないだろう。」と言ったと思います。彼は、「自分がしていることは正しい」と思い込んでいたと思います。しかし、どこかで「間違っている・・」と感じることは最後までなかったのだろうかとも思います。彼は、ヒトラー自死後、自らも家族を道ずれに後を追いました。
冒頭の聖句は、神が誰よりも誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている・・・と評価したヨブのことばです。彼は、数々の災いと苦しみを負い、友人から何か反省することはないか・・と責められますが、身に覚えのないことゆえに出たことばです。
義とは正しさのことですから、間違ったことはしていない、やましいことはしたこともない、良心の呵責も何もない・・というヨブのことばは間違いではありませんでした。しかし、ヨブでさえ神から「自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか。」(ヨブ40:8)と神の前で自分を義とすることの愚かさを指摘されています。ヨブはこの時、友人に答えたのであって神に訴えたわけではないのですが、神はこれを聞いていました。ヨブは、後に神の前で何も誇るものはない・・却って全く無知であることを悟ります。ならば尚のこと、ただの人である私たちが自分を義としてはならないことがわかります。
自分は正しい、間違いを犯さない・・・そんな人はいないのですが、もしそう思い込んでいる人が近くにいるなら、その人の力強いことばに惑わされないようにしましょう。その人は、自分のことばに責任を持てない人ですから。
2024年9月3日(火)更新
「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」 エペソ人のへの手紙2章5節
夏になると海や川遊びで予想外の深みに入ってしまったり、急な流れで戻れなくなる等、水の事故が増えます。子どもを救おうと飛び込んだ大人が溺れることもあって・・・意外に思うかも知れませんが、服を着たまま泳ぐのは想像以上に困難です。水球、水泳の選手なら泳力的には可能かと思いますが、溺者を抱えて泳ぐのは実は至難の業と言えます。
小、中学と水泳の選手だった私は、高校のときに日本赤十字社が主催する「水上安全講習」を受けて水上安全法救助員/認定証をとりました。プール監視のバイトに有利だと思ったのです(結局してない)。一定の泳力が求められますが(500m泳、潜行15m以上、立ち泳ぎ3分以上等々)水泳をしていた方なら問題ないでしょう。驚いたのは、人を抱えて泳ぐ困難さでした。意識のない人は、髪の毛を掴んだり、相手の胴体を抱える・・等いくつか方法があり、横泳ぎの足の動きを逆にするなど相当の体力とスキルが必要です。溺者に意識があるなら距離を取る必要があります。相手に掴まれてこちらの自由を失うからです。私は、もう体力的(心臓、膝)に救助者にはなれませんが、もし溺れている人を発見したら浮遊物を投げたり、衣類などを掴んでもらうなど・・どうにかして救える方法はないか考えたいと思います。
冒頭の聖句は、キリスト教の救いを端的に表しています。大して立派でもない私が救われるのは、自分に何かあるからではなくイエスが十字架に掛かられたことを信じる・・それは、恵みなのだと。恵みは、「与えられる幸福」といえるものです。
救助が必要とされる場で、ロープが投げられ、梯子が降ろされることがあります。ロープを握り、梯子を上る力が本人にあるなら、その人はある意味、自分の力で救いを引き寄せたと言えるでしょう。しかし全く動けないなら、救助者がその人のところまで来て、その人を抱えて救い出さなければなりません。これを恵みによる救いに例えることができるでしょう。
声を上げられない私たちを、神は見出し、イエスの方から近づきご自分のいのちを差し出され(十字架)、私たちの罪を処理して私たちが新しく生きるようにして下さいました。私たちにできるのは、救いを感謝して忘れず、与えられたいのちを無駄にしないで有意義に生きることでしょう。
2024年8月20日(火)更新
「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」 ヨハネの福音書4章14節
先月、住んでいる団地(4F)の水道ポンプが故障し水が出なくなりました。高層団地・マンションは通常の水道水圧では足りないためポンプで水を一旦上階まで汲み上げ(貯水槽)、そこから階下に供給する仕組みになっています。1018年9月の全道停電、いわゆるブラックアウトを思い出しました。停電は不便ですが、水が出ないのは深刻です。今回業者の方が水のペットボトル(箱)とポリタンク二つ(18L×2)を住民に準備してくれましたので、飲み水には困りませんでしたが、食事の際、お皿にラップを被せて洗い物が出ないようにしたりと工夫が必要でした。トイレや手洗い、体の清拭が困りました。トイレ使用の度にタンクに水を補給しなければならず「こんなに水必要なのか・・」と改めて驚きます。いよいよコインランドリーで洗濯を・・と思ったところで復旧したのでホッとしました。ひねれば水が出る・・・が当たり前になっていました。水がとても貴重なものであることを今回改めて思いました。
冒頭の聖句は、イエスが井戸に水を汲みに来た一人の女性にかけたことばです。イエスは、旅の疲れから井戸の傍らに座っていました。正午頃ですから日は高く、人はあまり井戸に来ない時間帯です。まるでその女性を待っていたかのようにイエスの方から話しかけます。初めこそ井戸の水をめぐっての会話でしたが、次第に人の根源的な渇きについて話を進めます。
人間の体の性質上、水は必要不可欠なものです。それと同じ様に人は、心が満たされることを望んでいます。渇望しているといって良いでしょう。自分が納得できるようになる事か、人から評価されることか、或は好きなことに没頭する時間を得ることで「心が満たされる」ように感じるかも知れません。
この女性には夫が五人いましたが、今、一緒にいるのは夫ではありませんでした。死別なのか離婚、結婚を繰り返したのか、本人の意志なのか親や夫に振りまわれたのか・・・詳しいことは書かれていませんが、イエスはその背景、事情を知っていました。彼女は、少なくても一緒に暮らす男性がいならが心満たされることなく、ある種の渇きを覚えていたのかも知れません。
イエスが与える水とは、恵みによる罪の赦し、十字架で示された究極の愛、復活という死から先にある希望のことです。罪が赦されるという安堵、愛されているという暖かい確信、死を越えた確かな希望がなければ、人はどれだけ恋愛を重ねても、富を蓄えても、真理を追究しても・・・渇きが癒されることはないでしょう。私たちは、この女性がそうであったように、自分が渇いていることに気付いていないのかも知れません。物でも人でも行為でも”心が満たされない・・・”と自分の心に正直に向き合うことができれば、イエスの語りかけが聞こえるかも知れません。
2024年8月6日(火)更新
「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、時分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。」
ヘブル人への手紙13章3節
多血症の定期受診で砂川の病院に行きました。大きな病院なので駐車場も広いのですが、膝の痛み(人工関節術後も続く)が大きいときは病院に近い所に駐車させてもらっています。車椅子や松葉杖等のピクトグラムがついているいわゆる優先駐車場です。ところが、午前8時50分頃に行っても既に埋まっている事が少なくありません。立体駐車場の各階に5~6台のスペースがありそこには「思いやりスペース」と書いてあるのですが、遠い場所に駐車したくないのでしょう。病院ですからどこか病んでいる方ばかりです。気持ちはわからないでもありません。
前回、近くに停めることが出来ずに遠くに停めたものですから、途中でマスクをつけてないことに気づきましたが、車に戻るのがしんどかったので病院で購入しました。
チェックしているわけではないのですが優先スペースに停めている方の中には、歩行に問題なさそうな人を見るときがあります。外から見えないそれぞれの事情があるのかも知れませんが、車を停められなくてがっかりすることがあります。互いに思いやることが必要でしょう。
冒頭の聖句は、「兄弟愛をいつも持っていなさい。」で始まる13章に出てくる兄弟愛の具体例です。キリスト者は、時の為政者によっては、投獄されたり、虐げられる対象でした。このヘブル人への手紙が書かれた時代にも既にあったようです。自分がそっち側にならなくて良かったと喜ぶのではなく、投獄された人たち、虐げられている人たちと同じ立場、気持ちでいるようにといいます。
「思いやりなさい」の原語は、他の個所では「思い出す」「思い起こす」と訳される事が多いです。ある事実を”思い出す”だけでなく、そうなった人の心情を慮(おもんぱか)り、自分の体もそこにあるかのようい想像して、その人のことを思うからこそ「思いやり」となります。そう訳しているのはここだけです。
現実には、兄弟愛はごく親しい人の間にのみ見られるものかもしれません。けれども神は、私たち皆が持つようにと命じます。私たちが兄弟愛を持つことができるなら多くの人が孤独から解放され誰もが暮らしやすい社会になるでしょう。
兄弟愛・・・とまではいかなくても、他者の苦しみ痛みを他人ごとではなく、自分の事として思いやることができるなら、それを神が見過ごすことはありません。
「思いやる」と訳された原語は、神が語る個所では「忘れない」とか「覚えている」と訳されています。神は忘れることはないので思い出す必要がないからだと思います。人に褒められなくても、評価されなくても、他者を思いやる意義はここにあります。
2024年7月16日(火)更新
「主はこう言われる。公正と正義を行い、かすめ取られている者、虐げる者の手から救い出せ。寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また、咎なき者の血をここで流してはならない。」エレミヤ22章3節
いじめを苦にした自死等の報道に心が痛みます。旭川の中学生凍死事件は距離的に近いこともあり特にそう感じます。いじめは、何も子ども時代だけの現象ではなく、いい大人になってもしばしば起こります。法的には、脅迫とか侮辱罪とか言うらしいのですが、立証に壁があるようです。
いじめは、からかいの延長のような言葉ですが、ある時から人を傷つけて癒しがたいダメージを与える可能性があり、その自覚が必要です。もっともそう思えないからいつまでも繰り返されるのでしょう。
私は、小学生の頃、それほど大きい方ではありませんでしたが、運動が得意だったこともあるのか、そもそも田舎だったからなのか・・・いじめられた記憶はありません。
でも、思い起こせば、あれはいじめだったかな・・と思うことはあります。O君は、私よりも成績が悪く、その家の様子から家庭は貧しそうでした。そんなことから私は彼を下に見たのでしょう。O君の頭にあったハゲを歌にしてふざけて踊ったりしました。そこにいたO君も笑っていました。当時私は、面白いことをして人を笑わせた一つにしか思っていませんでした。でも大人になっていじめに関する報道を見るにつけ、私はいじめる側だったのではないかと思うようになりました。
冒頭の聖句は、旧約聖書の預言者によるものです。事情で故郷に帰れず身を寄せる人、親のいない子どもたち、配偶者を失った生活困窮者・・・ともに弱い立場にある人たちです。弱者を虐げたり、利用して利益を得ることは紀元前からありました。弱者に対して虐げ、搾取するのは一部の人かもしれませんが、自分よりも下と見たり、冷たい視線を全く持たない人は限られるでしょう。
神は、彼らに対して苦しめたりいじめてはならないと命じます。神は、私たちの弱者への冷たい視線が麻痺しいずれ無感覚になることを知っています。弱者の思いを知っている神は、それは彼らにとって”血を流す”ことだといいます。ちなみに弱者への公正と正義が行われなかったことがユダ国が滅びる要因のひとつに挙げられます。いじめは、その人の心を傷つけ血が流れることです。弱者と感じる人に対して上下の感覚を覚えるなら、弱者の立場に立つことは難しいでしょう。自分が弱い立場にあった時を思い出したり、想像することができるなら彼らを助ける側になれるかも知れません。
2024年7月2日(火)更新
「主は貧しい者を正義に歩ませ、貧しい者にご自分の道をお教えになります。」
詩篇25篇9節
先日、食糧事情の厳しい現実を扱った特別番組を見ました。現在地球の人口は80億人を超えていますが、約75年前の1950年は25億人だそうで人口が急激に増えていることがわかります。食料生産のために地球は、この300年で農地が8倍になり、面積の40パーセントが農地になったそうです。病気、害虫に強く効率よく収穫するために農薬使用、機械化などある程度仕方ない面はあると思いますが、安心安全な食糧確保はこれからも課題になるようです。そういえば有機野菜は割高です。貧しい人は、裕福な家庭より質の良い教育を受ける機会が限られているといわれます。食においても同様かもしれません。やりきれない思いになります。
貧困はしばしば犯罪の温床になるといわれます。でも冒頭の聖句は、そうでもないことを表しています。貧しくても正しい道を歩むことはできます。主は、富む者にも貧しい者にも道を教えてくださいます。この節の前後には、罪人にも道を教え・・・その道は恵みとまこと・・・とあります。富む者が善人とは限らないように、貧しい者が悪人であるわけではありません。自分が置かれた環境を変えることは容易いことではありませんけれど、正しい道は何か・・・と求める人はいるはずです。周囲に良いモデルになる人がいないかも知れません。でも神は求める人に教えてくだいます。正義を語るには、或は判断するには難しさが伴いますけれど、案外正しい道を歩んでいるか否は、私たちにも分かるのではないかと思います。ただ私たちは身びいきというか何でも自分の都合よく捉えがちですから、正義と言われてもしばしば偏っていることがあります。ただ、何が正義が誰もわからなくなってしまうなら、それこそ正義も公正もない世界ということでしょう。そんな世界に真の幸福、隣人との平和があるとは思えません。神は、私たちが理想を語るだけではなく、実際歩むことができるように導いて下さいます。貧富の差別なく神は真に公平なお方なのです。
2024年6月18日(火)更新
※今後の更新は、第一、第三火曜日を予定しています。
「何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを、だれも告げることはできない。」 伝道者の書8章7節
6月10日は日本で初めて時計による時の知らせが行われたそうで、この日にちなんで「時の記念日」になっています。祝日ではありませんので注目度は低いと思います。私も忘れていました。国産初の腕時計は1913年(大正2)だそうで、私が子どもの頃から時計は身近にありました。予定、約束などを決める際、改めて正確な時を互いに共有できる幸いを感じます。「時の記念日」なるほど・・と思いました。
正確な時間はわからずとも季節の移り変わりで花の咲く時、実のなる時は大体推測できます。一方でその時を予め知ることができないものがあります。というか人が計画的に準備したこと以外、先のことはわからないというのが事実ではないかと思います。人が立てた計画でさえ予想外の事によって計画通りいかないことは珍しくありません。冒頭の聖句の前節は「すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。」とあり、予想通りいかないものだといっているようです。
今年元旦より膝が痛くて・・と以前ここに書きました。3月下旬には救急車で搬送されイースター礼拝に行くことが出来ませんでした。それで急遽、ビデオ礼拝に切り替えました。身体の具合が悪いのは、膝や、心臓の薬の副作用かと思っていましたが、ある検査で血液の数値が異常であることがわかり、病院を紹介され詳しく検査をしたところ血液のがんである真性多血症と診断されました。4月の事でした。他のがんのように患部を切除して様子を見ることはできず、逆にステージ○で余命宣告を受けることもありません。ただこの先、白血病や骨髄線維症に移行するリスクがあるので血栓の予防薬を飲みながら様子を見ることになりました。尋常でない疲労感の原因がここにあったようなので診断名に納得でした。
二人に一人はがんになる時代です。そのうち男性は4人に一人が亡くなるそうです。がんになったからといって驚くほどの確立ではないはずです。それでも私は、もう少し先ではないかと思っていました。恐らく神がこのタイミングで・・・と思われたのでしょう。私に関するすべての事に関わる神の御意思だと思います。絵を描く気力も家庭菜園を楽しむ体力もなく以前にも増して出来ないことが増えてしまいました。けれども、まだもう暫く何かできそうです。いつ、どこで、どのように地上の生涯を終えるか私には全く想像できませんが、知っておられる神がいます。告げて下さる主がいます。キリストは死の先にあるものを私に示して下さいました。これらは私にとって大きな安心の源です。
2024年6月11日(火)更新
「私のたましいは 主にあって喜び 御救いの中にあって 楽しみます。」
詩篇35篇9節
昨日、妻の定期受診で旭川医大に行きました。妻は皮膚がんの手術後、年に二度CT検査を行い転移の有無を検査しています。また、甲状腺に何かあるようでその大きさに変化の有無を確認するために耳鼻科にも行きます。医大まで片道一時間ほどですが、お昼を挟んでほぼ一日かかりです。でもこの時期は緑がきれいなのでドライブ気分を味わえます。12号線から神居スキー場の方に入り、小さな山を越えて行く裏道があります。この時期、このルートを通るのが楽しみでした。途中で羊の放牧場を見ることができたからです。ところが、今回一匹もいませんでした。帰りにもう一度ゆっくり見てみると、施設、建物自体が無くなっていました。確か「○○動物王国」のような看板があったと思いますが、それもなくなっていました。何かの理由で施設を閉鎖、解体したのでしょう。このルートを通る楽しみが一つ無くなってしまいました。
冒頭の聖句は、たましいが主の御救いにの中にあって楽しみ、喜んでいることを記しています。この詩篇の作者は、整えられた環境の中、穏やかな日常が与えられ喜びや楽しみを見出している・・・のではなく、むしろ逆で、作者の命を求める者が追い迫り、作者がつまずくと喜ぶ・・そんな者たちに囲まれた状況でした。気が休まるときがなかったかも知れません。でもそのような中で、作者は、私のたましいは、主の御手のなかにあるので不安や恐れにつぶされるようなことはないと思っていました。だから肉体、心は傷つけられるかもしれないが、たましいは主の御救いを喜び、楽しんでいるのだと言えたのでしょう。
私たちは、大きな病気に罹ったり、老いを重ねるとそれまで楽しかったこととは異なる楽しみを見出すことができます。確かに健康でなければ楽しめないこともありますけれど、それらは環境によっては失われていくものです。私たちは、不安や恐れの中で意気消沈してしまう現実がありますが、一方で、誰もがたましいの喜びと楽しみを見出すことが可能なのです。
2024年6月5日(水)更新
「また、彼の心に人を教える力をお与えになった。彼と、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブに、そのようにされた。」出エジプト記35章34節
かなり前になりますが、教師にはいくつかのタイプがあると聞いたことがあります。授業が面白くわかりやすい先生、生徒に親身な先生、熱心だけどからまわりする先生、コミュニケーションが不得手な先生・・・。教師に求める理想像はいろいろあると思いますが、最終的に恩師と呼ばれて長く慕われるのは、人柄だそうです。そういえば、私も先生が黒板に書いたものをひたすらノートに書き写した記憶があります。ドラマのようにチョークを投げられたことはありませんが、人前で大きな木製コンパスで頭を小突かれた事があります。出来の悪い生徒に(私のこと)先生はイライラしているようでした。思い起こせば確かにいろいろなタイプの先生がいました。
冒頭の聖句は、神を礼拝する移動式施設「幕屋」を作る際、その指導者として立てられた二人の事について書かれています。二人とは、ベツァルエルとオホリアブのことで(聖句の中で一人は「彼」)彼らは、聖所の奉仕のあらゆる仕事をする知恵と英知が授けられた・・とも書かれています。設計も担当しましたから総監督等一つの役職名では言い表せないかも知れません。また、大きな事業になるので、いくら二人が器用で知恵があっても二人でできる作業量ではありませんでした。ですから他の人に教え、指導していく必要がありました。冒頭の聖句にあるように〝人を教える力“は神から与えられたものでした。また、〝彼の心に“とあるように指導者としての指導法、スキルのようなものが単に教えられたのではなく、彼らの心には、同じ目標に向かって進む志が与えられ、若い人に対しても同志のような感覚があったと思われます。聖なる奉仕に召された二人は、神を畏れていましたから何より謙遜でした。若い職人はこうして技術を習得し継承して行くことになりました。
知識があり、技術もあるけれど高慢な師匠の下では、よい弟子は育たないのではないでしょうか。先ずは弟子も人であり、教える側も神の前にひとりの人であることを自覚する必要があるでしょう。教え方にも創意工夫は必要ですが、教える能力は神から与えられた賜物の一つです。ある人に群れの監督に相応しい資質があるか否かの判断は簡単にはできません。誰もが指導する立場になるわけでもありません。けれども、知っていることを分かち合うことは出来ますし、求める方に教えるためには、相手の関心の深さ、興味の度合いによって分かりやすく教える力は必要になります。神は、私たちの立場に応じた力を賜物として与えて下さいます。
2024年5月28日(火)更新
「私の根は水に向かって伸び広がり、夜露が私の枝に宿る。」
ヨブ記29章19節
私は膝を含めてあちこち悪いので今年は家庭菜園をあきらめていました。でもミニトマトは家庭菜園で収穫したものが食べたい・・・と妻と話が盛り上がり、何と妻がスコップで耕してくれることになりました(多分初めて)。それでいつもより少なく八株を植えて育てました。五月連休明けの暖かい日の事でした。ところがその後、数日寒い日が続いて・・・一株残して全部枯れてしまいました。植えたのが少し早かったようです。もう一度買い直さなければならないとがっかりしていました。二週間ほど待ったでしょうか何と株の下の方から脇芽が出てきているではありませんか。土から上は枯れていても根までは枯れていなかったのです。生長は遅くなってもやがて実を付けるのではないか・・・と期待しました。
冒頭の聖句は、ヨブがこれまでにない苦しみを経験したとき、かつて神の祝福を味わっていた時のことを思い出して語ったものの一部です。根が水を求めて下に伸びるのは一般的で順調な証しです。でも今は、試練の中にあって同じように根が伸びているとは言えない状況でしょう。でも、ヨブは、苦しみもがきながら神との関係を模索していました。それは、豊かな土壌の中で根が張るのとは異なり、過酷な環境の中で水を求めて必死に根を伸ばすようなものでした。それでヨブは、それまでと異なる神との関係を得ることになります。
見えるところは悲惨でも、根の部分は枯れていない、むしろ再生の機会を伺っているということがあります。ひょろひょろ伸びた茎よりもしっかり張った根を持つ方が、後々良い実を付けるような気がします。
2024年5月22日(水)
「あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。」 エレミヤ書30章13節
先日、整形外科と内科の受診の後、薬局に寄ってきました。改めて見るとその薬の量に驚きます(下の写真)。数年前まで薬局で袋一杯の薬を抱えている老人を見ては「すごい量だな・・」と思っていたのですが、自分もそうなっていました。私の薬は・・・しびれを緩和するビタミン剤、痛み止め、胃薬、血栓予防薬、心臓の薬、心房細動発作時の薬三種、+写真にはありませんが膝の湿布薬です。この他に脳の血栓を防ぐ薬、漢方薬も飲んでいます。薬を飲むとき手のひらの錠剤を見て「こんなに飲んで大丈夫か・・」と思うことがあります。どれも必要なものですが、とりわけ血栓を防ぐ薬は、後のダメージ(脳に移動)を考えれば、必須のようです。もし薬がなかったら・・・と思うとぞっとします。
冒頭の聖句は、旧約聖書時代のユダ国が神への信頼を失い、他国の勢力に右往左往するなか預言者エレミヤを通して語られたものです。神が武力による他国の侵攻を許したので、ユダは傷つき痛みます。でも彼らの訴えを擁護する者も、腫れものに薬を付けて看護するものも、癒す者もいないといいます。これは、ユダに対する神のさばきでした。隣国に助けを求めても願うような結果は得られないと告げます。傷ついて助けを求めても、放置されるとしたらそれは辛いことです。でも、もし名医がいるにも関わらず、あの医師はイケメンだ、美人だという理由で深刻な病の治療先を決めてしまうとすれば、後に深刻な事態を招くでしょう。そうならないために下手な治療は却ってしない方がよいと言えます。神は、冒頭に続く箇所で〝わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒す。”(17)と言っています。わたしが癒すから、当てにならないものに頼って無駄な時間を過ごすな・・・ということでしょう。
私は信頼する医師に事情を話して服用を止めた薬もあれば、しぶしぶ飲むようになった薬もあります。素人判断で勝手に量を増減したり、止めたりすると治療の妨げになることがありますし、薬が却って害をもたらすことになりかねません。たましいの医者である神は、私たちに最善、最良の治療をして下さいます。
2024年5月14日(火)更新
「あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。」
出エジプト記23章5節
最近、整形外科、循環器内科、血液外来と病院通いが続いていて重なるときは週に二度違う病院に行くこともあり、それなりに時間を取られます。近いとはいえ隣り町の病院に昨日(7日)行ったばかりです。その時、保険会社に提出する書類を書いてもらうはずが肝心な書類を忘れてしまったので、今日の午後もう一度行くことになりました。本当に忘れっぽくなって来ました。バタバタしているうちにあっという間に時間が過ぎてしまいました。
冒頭の聖句は、旧約聖書にある神の命令のひとつでとても具体的です。“あなたが憎んでいる・・”ではなく”あなたを憎んでいる”とあります。自分が憎まれている・・ならその人とは関わりたくはないのではないでしょうか。自分を憎む人が困ったところで知ったことはない、むしろ、ほれ見たことか・・・となるかも知れません。でも、神は、あなたを憎む人がいるなら、その人が困っているときに助けなさい、と命じます。見過ごせば、ろばは重い荷のせいで傷ついてしまうでしょう。災難を見過ごしにしないで彼と一緒にろばを助けるため行動することで、憎まれている人に対する彼の憎しみに変化が生じることでしょう。
私たちは人を憎むことがあるかと思います。憎むにはそれなりの理由があるはずです。そこに相手の悪意を見出す場合もありますが、こちらの過剰な反応による誤解や疑心暗鬼によるものもあります。いずれにしても悪化した関係を修復するには、真心からの善意が必要だということでしょう。神は、私たちが憎み合うのではなく、互いの必要を満たし愛し合うことを願っておられます。
2024年5月8日(水)更新
「人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。すべて、起こることは空しい。」 伝道者の書11章8節
映画「生きる LIVING」を見ました(2022年/英国)。主人公が英国紳士(役所勤務)だったので外国の映画になりますが、日本の作品(1952年/黒澤明監督)のリメイクだそうです。
真面目に仕事をしてきた初老の公務員男性は、ある日、自分が末期のがんであることがわかり、それまでの判を押したような生活に変化が訪れます。彼は、同じ職場いる若い女性の明るい性格に惹かれ、彼女と親しくなります。親しくといっても男女のそれではなく、先に妻を失い、同居する息子夫婦との関係がぎくしゃくするなかで得た友情のようなものでした。彼は、一時自暴自棄になってしまいますが、職場に戻って以前とは別人のように仕事に取り組みます。残された時間が短いことを受け入れ、悔いのない時間を過ごすしていきます・・・。
誰もが幸せで充実した人生を歩みたいと願っていると思います。でも、その幸せとか充実とは具体的にどのようなことをいうのでしょう・・考えさせられる映画でした。
冒頭の聖句は旧約聖書、伝道者の書の一節です。前節には、〝光は心地よく、日を見ることは目に快い“とあります。人生の中で光の中を歩むのは心地よいものです。誰もが強いスポットライトを当てられるわけではありませんけれど、心地よいときを過ごすことはあるでしょう。日の目を見ることだってあるはずです。ずっと楽しい時間が続けば良いですが、そうではないことを大抵の人は知っているのではないでしょうか。
〝闇の日“は、光を感じることができない辛い日々と言えるでしょう。聖書は、それがたまにある・・ではなく〝多くある“と記しています。
老年の域になれば、何かしら身体的に不具合が見つかっても不思議ではありません。血圧が高い、便秘気味、食事に偏りがある、運動不足の人は、何かしらの疾患が見つかるリスクは高いのだそうです。いきなり末期がんの宣告は珍しいかも知れませんが、誰もが楽しみを失うような、光を失うような闇の日を迎えるかも知れないのです。というかいつまでも光の中を歩めると思っていると闇が突然襲いかかってパニックになるかも知れません。今あるものはいつまでも続くわけではない・・そう心して来るべき日に備えることができるなら、空しさを最小限に留めることができるでしょう。
2024年4月30日(火)更新
「神は みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」
ピリピ人への手紙2章13節
昨日、札幌の羊が丘展望台のクラーク像の台座のところにある「大志の誓い」投函者が累計10万人に達したと報道されていました。本州から旅行で訪れたカップルだそうです。観光地としても有名ですからいまさらクラーク博士像を説明する必要はないと思いますが「Boys be Ambitious!(少年よ大志を抱け)」は道外の方にも良く知られていると思います。私も札幌に住んでいた時がありますのでこの像は何度も見ていました。でも、台座に投函口があることは知りませんでした。「大志の誓い」を書くカードは一枚100円の保管料がかかるそうで札幌観光協会が保存し、後で自分の誓いを読むことができるそうです。そんなサービスがあることも知りませんでした。しかも、この像が建てられたのは48年前の4月16日、同じ日に10万人目の投函って何かすごい・・・とちょっと感動しました。
大きな志をもってそれに向かって進んでいく・・・素晴らしいことです。若い方なら書きやすいかも知れませんが、年配の方はどうでしょう。どんな事を書くでしょうか。
冒頭の聖句は、私たちの個人的な展望、夢とは異なり神が私たちの心に働きかけて志を立てるとあります。それは、自分がやりたかったことと重なる事かも知れませんし、全く思いもしなかったことかも知れません。いずれにしても、神に導かれるように、背中を押されるように目指すものが見えてくるということでしょう。
人は誰でも善いことをしたいと願う思いがあります。人から善人に思われたいと思うところからそれをすれば偽善の香りが漂いますが、そんな人ばかりではないはずです。神は、人の心に働きかけて純粋な心で行動するように導いて下さいます。人は歳を重ねても聖なる志を持つことができます。
2024年4月17日(水)更新*昨日は朝から病院で・・・更新遅れました。
「天を仰ぎ見よ。あなたより、はるかに高い雲をよく見よ。」
ヨブ記35章5節
いくつかの要因が重なって、肉体的にも精神的にも疲れてしまい・・・療養期間を頂きました。今週の日曜日の午前10時30分、私は自宅で古い動画(以前の礼拝宣教録画)を見て、讃美歌を歌い一人で礼拝の時間を過ごしました。教会の皆さんと一緒に礼拝できないことが寂しく、改めて礼拝とは何かを考える機会になりました。
療養の中心は、なるべく膝に負担をかけないように、将来を思い煩わないように(膝の治療、血液の病気の治療)ぼんやりと時間を過ごすことです。気を紛らわせるのにテレビやネットは、役に立ちますが次第に目が疲れたり、頭痛がするようになりましたのでベランダ側のサッシを開けて、外の空気を吸って青空とゆっくり流れる雲を眺めていました。思い通りにならない現実、晴れない不安を抱えている人が慰めを得られるとしたら、何でしょう・・・恐らく人のことばではないでしょう。もちろん、私の場合、痛みや病の原因が特定され、医師の説明や具体的な治療方針に慰められることがあると思います。けれどもそれは、治療に希望が見える場合ではないでしょうか。多くの人が具体的な希望が見えない中で空を見上げたのではないかと思います。
冒頭の聖句は、深く悩み、苦しむヨブに対して友人エリフが語ったものです。神に深い信頼を寄せていたヨブがあまりの苦しみのゆえに神につぶやく様子をみて、エリフは、神がこの苦しみのときに答えて下さらないからといってヨブに関心を寄せていないはずはない、天を見よ、雲を見よ・・・あなたのはるか上を動いている・・・とヨブに対して上におられる神を見るように促しているようです。
私は、これまで何度も入院したことがありますが、病院の窓から今日と同じように雲を見上げました。おそらく人生の儚さを寂しく思ったり、家族と会えない寂しさの中で、大切な人を思いながら空を見上げ、また戦場では、いのちの終わりに空を見上げた人もいるでしょう。雲の下には様々な事情を抱えた人たちがいます。私もその一人です。でもはるか高いところにおられる神が右往左往する私を見ていて下さると思うと心が晴れます。
2024年4月10日(水)更新
「わたしは よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は 死んでも生きるのです。」 ヨハネの福音書11:25
先週木曜日の夜、私は、救急車で病院に搬送されました。左膝人工関節の手術以来、この二年痛みがとれず痛み止め薬、湿布でなんとかやり過ごしてきたのですが、今年に入ってひどく痛む日が何度かあり、先日とうとう一歩も動けなくなってしまったのです。担架で狭い団地の階段を時間をかけて降ろして頂きました。病院に着くまで、時間にして恐らく20分くらいではないかと思うのですが40分くらいに感じました。その間揺れる度に激痛が走るので歯を食いしばりながらうめき声を上げ続けていました。 病院では、当直医が専門外のドクターだったため整形の先生を呼んで下さり、応急処置として膝に溜まった血を抜いて頂き、腫れが少し引いて少し楽になりました。でもまだ歩ける状態ではなかったのでそのまま入院しました。その後、痛みも大分治まり歩けるようになったので月曜日に退院しました。根本的な治療はまでできませんので、帰宅後自宅で安静にしていますが、またあの状態になったらどうしよう・・・と気が気でありません。思い出すと本当にぞっとします。
3月31日はイースター、復活節を迎えて教会の礼拝後は、みなで昼食を楽しみました。今回は、パンとシチューを婦人の方々が用意してくれました。私は、まだ入院中でしたのでその様子を妻のスマホを通して見せてもらいました。
イエス・キリストの十字架による罪の赦しと復活による永遠のいのち・・・を喜び祝うイースターは、教会の最も大切な祭事ともいえます。そのような喜びの中、私は、病院のベッドで膝を冷やしながら、この先どうなるだろうかと心配していました。実は、二年間通院して痛み止め薬しか処方されなかったので、意を決して転院を希望し紹介状を依頼した矢先の救急搬送でした。根本的な治療ができないまま、痛みだけを緩和する方法をまたこれからしばらく続けなければならず失望の中にいたのです。
入院中殆ど横になっていましたので(トイレも車椅子)、退院後もしばらく体を横にしないと疲れて動けませんでした。頭痛にも悩まされこのコーナーの更新もままなりませんでした。膝以外にもいろいろあって心身共に疲れてしまったようです。実は、火曜日にこの原稿を準備し始めたのですが、途中で疲れて中断していました。
随分否定的な内容になってしまいましたが神を信じる人も肉体的、精神的、霊的に疲れを覚えることはあります。具体的な弱さ、痛みに向き合うことがあります。その痛み、悩みが深ければ深いほど簡単な回答、慰めを見出すことは困難です。それは聖書でも同様です。でもイエスのことばには、回答と慰めにつながるものがあります。冒頭の聖句もその一つです。私は、今回の激しい痛みの中でも死を意識する程ではありませんでした(事故で大腿骨を骨折したときは悶絶した)。たとえ”死”を意識せざるを得ない状況になったとしても・・・十字架と復活この二つを経験されたイエスのことばが私を慰め、希望を与えて下さると信じています。
2024年4月6日(土)更新
「するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓いはじめ、『そんな人は知らない』と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。」マタイ26章74節
キリスト教の暦では、今週は受難週。イエス・キリストが十字架につけられた金曜日を迎えます。クリスマスと異なりイースターは、十字架(処刑)からの復活という一般的には、目を背けたくなるような死と、よみがえりという極めて宗教的なテーマであるがゆえに扱いずらいのではないかと思います。でも、私たちの日常は、明るくポジティブな事だけではありません。むしろ、それまでの信頼、評判を裏切るかのような負の一面を誰もが多少なりとも抱えています。
冒頭に名前が挙げられたペテロは、イエスの弟子の中でも聖書に何度も名前が挙げられている人です。また他の弟子と同様に数々の奇跡をイエスの傍らで目撃し、ある時は関わった人でした。彼は、どこまでもイエスに従うと心から願い、口に出してもいました。
一方でイエスは、ご自分の十字架刑が近いことを知って弟子たちにそのことを告げますが、弟子たちは現実的に捉えることができなかったようです。奇蹟を起こし、人を愛し癒したイエスが罪人として捕えられることが想像できなかったようです。しかし、目の前でイエスが捕らえられ下役人等から暴行を受けている様子を見て弟子たちは恐怖を覚えます。「どこまでも付いていく・・何があってもつまずかない!」と言っていた弟子たちは、皆逃げ去りました。
ペテロは、それでもイエスの逮捕後が気になって様子を見に戻って来ました。ところがその場に、ペテロがイエスの弟子であることを知っている女性がいて「イエスと一緒にいましたね」と声をかけられ慌ててしまいます。イエスの弟子だということが知れたら何をされるか分からないと恐れたのでしょう。それで彼は、イエスを知らない・・ことにしました。その後も二人に同様の声をかけらたのでその都度否定しましたが、次第にその否定は強いくなり、とうとう冒頭の聖句になりました。
人は〝嘘じゃない“と声高に叫ぶときがあります。それが本当のときもあるし、それが嘘のときもある・・・悲しい現実です。
イエスは、ペテロがこうなることを知っていました。事前にそのことを告げた時に、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」とペテロに告げていたのです。ペテロは鶏の鳴き声を聞いたときにイエスの言葉を思い出して、その場から離れ激しく泣いたことが聖書に書かれています。ペテロは、嘘をつくつもりは全くありませんでした。むしろイエスの弟子として生き抜くことを願っていました。でも予想外の現実に直面したしたとき自分が願うように行動できませんでした。理想とは真逆の行動をしてしまったのです。
罪というと犯罪のイメージが大きいかもしれませんが、自分のことばに不誠実なことも罪に値します。犯罪を犯してしまうのはある種の弱さですが、正しく生きようとしても何だかんだと理由をつけてそうできないも弱さです。私たちは、皆弱く、理想はあってもその通り生きられないものです。イエス・キリストはそんな私たちの罪が赦され、神に受けいれられていることを証しするために十字架に掛かりました。ご自分の罪や死と向き合うことは気が進まないかも知れません。でも真摯に向き合うなら、ペテロがそうであったように十字架による赦しとイエスのことばによる慰めと希望を知ることができるでしょう。
2024年3月26日(火)更新
「するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓いはじめ、『そんな人は知らない』と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。」マタイ26章74節
キリスト教の暦では、今週は受難週。イエス・キリストが十字架につけられた金曜日を迎えます。クリスマスと異なりイースターは、十字架(処刑)からの復活という一般的には、目を背けたくなるような死と、よみがえりという極めて宗教的なテーマであるがゆえに扱いずらいのではないかと思います。でも、私たちの日常は、明るくポジティブな事だけではありません。むしろ、それまでの信頼、評判を裏切るかのような負の一面を誰もが多少なりとも抱えています。
冒頭に名前が挙げられたペテロは、イエスの弟子の中でも聖書に何度も名前が挙げられている人です。また他の弟子と同様に数々の奇跡をイエスの傍らで目撃し、ある時は関わった人でした。彼は、どこまでもイエスに従うと心から願い、口に出してもいました。
一方でイエスは、ご自分の十字架刑が近いことを知って弟子たちにそのことを告げますが、弟子たちは現実的に捉えることができなかったようです。奇蹟を起こし、人を愛し癒したイエスが罪人として捕えられることが想像できなかったようです。しかし、目の前でイエスが捕らえられ下役人等から暴行を受けている様子を見て弟子たちは恐怖を覚えます。「どこまでも付いていく・・何があってもつまずかない!」と言っていた弟子たちは、皆逃げ去りました。
ペテロは、それでもイエスの逮捕後が気になって様子を見に戻って来ました。ところがその場に、ペテロがイエスの弟子であることを知っている女性がいて「イエスと一緒にいましたね」と声をかけられ慌ててしまいます。イエスの弟子だということが知れたら何をされるか分からないと恐れたのでしょう。それで彼は、イエスを知らない・・ことにしました。その後も二人に同様の声をかけらたのでその都度否定しましたが、次第にその否定は強いくなり、とうとう冒頭の聖句になりました。
人は〝嘘じゃない“と声高に叫ぶときがあります。それが本当のときもあるし、それが嘘のときもある・・・悲しい現実です。
イエスは、ペテロがこうなることを知っていました。事前にそのことを告げた時に、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」とペテロに告げていたのです。ペテロは鶏の鳴き声を聞いたときにイエスの言葉を思い出して、その場から離れ激しく泣いたことが聖書に書かれています。ペテロは、嘘をつくつもりは全くありませんでした。むしろイエスの弟子として生き抜くことを願っていました。でも予想外の現実に直面したしたとき自分が願うように行動できませんでした。理想とは真逆の行動をしてしまったのです。
罪というと犯罪のイメージが大きいかもしれませんが、自分のことばに不誠実なことも罪に値します。犯罪を犯してしまうのはある種の弱さですが、正しく生きようとしても何だかんだと理由をつけてそうできないも弱さです。私たちは、皆弱く、理想はあってもその通り生きられないものです。イエス・キリストはそんな私たちの罪が赦され、神に受けいれられていることを証しするために十字架に掛かりました。ご自分の罪や死と向き合うことは気が進まないかも知れません。でも真摯に向き合うなら、ペテロがそうであったように十字架による赦しとイエスのことばによる慰めと希望を知ることができるでしょう。
2024年3月26日(火)更新
「彼はそれぞれその能力に応じて、一人には5タラント、一人には2タラント、もう一人には1タラントを渡して旅に出かけた。・・・」
マタイの福音書25章15節
昨日、自宅の灯油タンクにポリタンクから灯油を補給しました。団地の灯油タンクは100L程で、残量が減ると用意しておいたポリタンクから自分で補給するようにしています(4個有)。ポリタンク容量は、18Lですが、補給の際、その量だと膝に負担がかかるので半分くらいの量を業者に入れてもらっています。昨日久しぶりに私が補給したのですが、その際、妻が「膝が痛くなるから止めたら、私するから・・」の声が聞こえました。私は「大丈夫!右足に重心かけるから・・」と人工関節の左膝をかばって作業を続けました。ポリタンク二つですから大した時間ではありません。ところが、今朝起きたら、右足の膝も痛いではありませんか・・。まさか、あの作業で・・と思いましたが詳しいことはわかりません。間違いないのは、昨年よりも大分移動(歩行)範囲が狭くなり、できることも大分減ったということです。
能力を数値化するのに抵抗があるかも知れませんが、私たちは、それぞれ能力に違いがあります。冒頭の聖句は、イエスによる「タラントのたとえ」といわれるものです。神がそれぞれの能力に応じてタラントを渡したことが記されています。タラントは、当時の6千日分の労賃に相当しますので、強引に現在の円に換算すると3千万円くらいになるでしょう。誰もが手にすることができる額ではないと思います。
イエスは、たとえの中で、主人がしもべたちにこのお金を預けて旅に出たと記されています。タラントは、神が私たちに与えて下さった能力、才能といえるものです。勉強ができて、スポーツも得意で、コミュニケーション能力に優れ、体形、容姿も性格もおまけに顔もいい・・という人がいないわけではないと思います。でも大抵はどれか一つか二つくらいあるものです。せっかく多く与えられても賢く、謙遜に用いることをしないで高慢に陥ってしまえば、自ら不幸を招くことなります。
たとえの中で主人は、旅から帰ってタラントをどう使ったかを尋ねます。私たちは、それぞれ与えられたものが異なるかもしれませんが、与えられたものを大切なものとして活用し、自分の人生のためにも、神の御栄光のためにも用いることになれば、人生に後悔はないでしょう。
私の見た目(体形等)は以前とさほど変わっていませんが、今は重い物は持てず、長く歩けず、杖をついています。でも出来ることはまだまだあります。タラントはとても価値あるもので、私にもタラントはあります。それは、私が人より何ができるかできないかということに表れるものではなく、人生の価値や真の幸福といった目に見えずらいものを見るところに最もよく表れてくるものだと感じています。
2024年3月19日(火)更新
「高ぶりがあると、ただ争いが生じるだけ。知恵は勧告を聞く者とともにある。」
箴言13:10
東日本大震災から13年の昨日、当時の映像や13年後の家族の様子などを各報道機関が取り上げていました。この災害は、大地震と津波、放射能汚染等複合的な災害として私たちの記憶に刻まれています。
二年前から続くウクライナの戦禍、昨年より続くイスラエルとパレスチナの出口の見えない関係などは、震災とは原因も過程も異なりますが、大切な人を失う喪失感、やり場のない怒りや悲しみには、通じるものがあるような気がします。イスラエルからのミサイル攻撃に怯え逃げ惑うパレスチナ人が報道陣のインタビューに「何故我々がこんな目に遭わなければならないのか」と答えていました。戦禍に関わらず災害の被害者でも納得のいく回答は得られないでしょう・・・。
戦争は始めた人が止めることができる・・・といわれます。かつて日本も相手国をあなどり自国を過信して悲惨な戦禍をもたらしたことがありました。責任ある組織の長が高ぶれば、大事な進言が生かされることはないのでしょう。否定的な発言は敵対者とみなして排除するなら、進言そのものがなくなるでしょう。そこにあるのは、自己の正当性とそれを否定する者との絶え間ない争いではないでしょうか。
冒頭の箴言は、争いと高ぶりの関係に触れています。人の上に立つ者には、知恵が不可欠ですが案外聞く耳をもっていない人が少なくないように思います。勧告は、〝そうした方が身のためだ・(当然そうすべきだ)ということを公的な立場から勧めること”(新明解国語辞典)と辞書にあります。なるほど自分が一番上だと思っているならその人に勧告できる人はいないのかも知れません。主イエスが〝聞く耳のある者は聞きなさい”といわれましたが、箴言が記録された紀元前もイエスが語られた二千年前も、戦争が止まない現在も、体質が変わらない組織も聞く耳をもてないから同じことが繰り返されるのでしょう。自分の上に真の神がおられる・・・そう受け止めることができるなら勧告もまた受け止めることができるでしょう。神は、私たちに〝ことば“をかけて下さいます。そのことばは私たちを知恵あるものとしして整えます。争うのに大した理由は要りませんが、争いを止めるには知恵と聞く耳が不可欠です。頭では分かっていながら、なかなできないというのが私たちの現実なのかも知れません。
2024年3月12日(火)
「エルサレムを山々が取り囲んでいるように主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。」 詩篇125篇2節
私は義母の通院送迎のために砂川に行くことがあります。私の膝故に最近は病院の玄関まで送って、義母から連絡が来るまで砂川の図書館(火曜休館)のロビーで時間を過ごすことが多いのですが、今日は、何かイベントがあるのか駐車場が一杯で車を停められませんでした。それで少し離れた「遊水地学習館」に行きました。オアシスパークの管理棟と言った方がわかりやすいかもしれません。オアシスパークは、旧石狩川の跡地を利用して造成された水辺のレクリエーションエリアとして知られ、池の周囲を周る歩道は、バードウォッチングや自然散策を楽しむ方が多いそうです。管理棟は一般に開放されており、休憩所としても利用できますので、私も休憩やトイレ等よく利用させて頂きました。エレベーターがあるので今回はじめて三階の展望室に上がってみました。室内には、西の山々の名称と標高が書かれたイラストがあり、また小さな絵が沢山飾ってありました。残念ながらこの日は曇り空で山脈は見えませんでしたが、室内に流れるオルゴールと木製ベンチでとても安らぐ空間でした。それにしても、空知の西側、千メートル級の山々があることは見れば分かりますが、殆ど名前を知らないことに我ながら呆れます。暑寒別岳・・・名前は知っているもののどれがその山であるか指を指せないのです。山歩きができない(膝)私にとって物理的な距離だけでなく心理的な距離もあるのかも知れません。
冒頭の聖句には、エルサレムを山脈が囲んでいるとあります。パレスチナは、ヨルダン川を挟んで並行するように西側と東側に山脈が南北に連なっています。その中にエルサレムはありますので、囲まれていると記したのでしょう。そのように神がご自分の民を囲んでいるといいます。この次の節にはその理由が記されています。一つは悪の杖が正しい人の割り当て地の上にとどまることがないように。もう一つは、正しい人が不正なことに手を伸ばさないようにするため、とあります。悪の侵入を防ぎ、また、悪への誘惑を絶つためということでしょう。柵ではなく山ですから、越えようと思えば越えられます。実際、人の行き来の制限は難しいですから様々な誘惑、価値観が入り込んできました。
現在は、ネットで世界とつながる社会になりましたので、情報が簡単に入手できます。でも有益な情報ばかりではありません。むしろ注意しなければならないものが多いように思います。面白可笑しい情報は気になりますが、私たちが刺激的な情報に感化されたとしても誰も責任を取ってくれません。
主は、山々がいつまでも変わらない姿でそこにあるように、私たちが時代に流されず、教えの風に振り回されないように見守っていてくださいます。
2024年3月5日(火)更新
「主よ 今 私は何を待ち望みましょう。私の望みそれはあなたです。」
詩篇39篇7節
ロシアによるウクライナ軍事侵攻から2年が過ぎました。戦争が始まった当初、侵攻理由が希薄に思えたので「あれで戦争が続けられるものなのか‥」と疑問でした。でも・・・・続いています。世界は、私が考えるよりも広くていろいろな人がいることを実感しました。この間、特にウクライナ側に兵士は勿論一般人を含めて多数の死者が生じ、また外国に逃れた難民の数は800万人にのぼるといわれます。その人たちにとって〝いろいろな考えがあるからな‥“で済むはずがありません。一方で私たちがどれだけ願っても停戦のために具体的な何かができるわけではありません。歯がゆさを感じますが当事者でないものの限界なのでしょうか。停戦、終結を願う私たちは、具体的に何を待ち望んだらよいのか考えてしまいます。
冒頭の聖句は、作者が人生の終わりを意識する中で記されたものです。作者は、神を信じていたので、時には神から罪を取り扱われて自分のうちにある空しい部分を垣間見るときもありました。恐らく私たちは、人生の道のりのなかで誇れるようなこともあれば、責められても仕方ないようなこと、悔い改める必要があることもあると思います。それらをすべて自分で良いように評価したくなりますが、正しい評価は神がなさいます。この詩篇の作者は、最終的な望みは、自分がどう生きたか‥という自己評価ではなく、神が私の人生をどう思って下さるかにあると思ったようです。神は、私たちの心にあるもの、生き方の根底にあるものを知ってくださり評価してくださいます。短い人生でも、波乱万丈な人生でも、晩年がどのようなものであったとしても、神が望みである人は、やがて訪れる〝神の前に立つとき“が楽しみになるでしょう。
2024年2月27日(火)更新
「自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえも白くも黒くもできないのですから。」 マタイの福音書5:36
何かの原因で膝に(人工関節手術後)炎症が生じると、数日間腫れて痛みに悩まされます。そこで痛み止め薬を飲む以外に何か対策はないか・・とネットで情報を探したところ、「砂糖の摂りすぎは、炎症を招く・・」とあったので二週間ほど試してみることにしました。すべての砂糖を断つことは現実的ではありませんので、チョコや飴など砂糖が入ったお菓子を止めることにしました。食事には、砂糖を使用した料理が結構ありますので、お菓子を止めたからといって困ることはありません。
おやつとして柿の種やナッツ類など食べました。習慣でしょうか、10日も経つとやはり甘いものが食べたくなってきました。カカオ70パーセントのチョコを見た時には、〝こんなにカカオが入っているならお菓子というより食品ではないか・・“と思いたくなりました。最近は、金時豆を煮ようかと思っています(小豆豆類はよく自分で作る)。金時豆は、おかずであってお菓子ではありません・・・。でも、どこかごまかしているような後ろめたさがあって、まだためらっています。
私は神にかけて「砂糖断ち」を誓ったわけではありませんが、当時のユダヤ人は、神にかけて誓うなら絶対守らなければならないが、それ以外なら誓ったことが途中で反故にされたり、うやむやになってしまったとしても、それは責任を問われないと考えたようです。冒頭の聖句は、〝自分の頭”とあるように頭にかけて誓った人がいました。でもイエスは、自分で白髪にも黒髪にもできない頭に向かって誓ったところで、何の意味があるかといいます。誓うというのは、自分より大きな存在に対してするものであり、それが果たされなければ、咎められたり責めを負うからこそ誓いの意味があります。では何故人は誓うのでしょう・・・恐らく、本気なんだ、真剣なんだというアピールなのではないでしょうか。だとすれば、聞かされる人は慣れてしまいます。〝誓う”という一見立派な行為が、逆にその人のことばの不誠実さを表してしまいます。
普段、誠実に生きているなら「やります。できません。」普通のことばで十分誠意は相手に伝わるものです。
2023年2月20日(火)更新
「鎌(かま)や、鍬(くわ)、三又の矛(ほこ)、斧、突き棒を直すのに、料金は1ピムであった。」
Ⅰサムエル記13:21
いつ買ったものなのかよく覚えていないのですが自宅の掃除機が壊れました。充電式で吸い込み口に回転ブラシがついているタイプですが、回転しなくなったのです。私も休みの日などに掃除機をかけますので、ある日、あれ?吸い込み悪いな・・とよく見たら、先端のブラシが回転していません。ただ吸い込みの邪魔をしている状態でした。そもそも高額な商品ではないので、修理に出すより別のものを購入する可能性が高いのですが、それなら壊れても構わない・・と回転ブラシ部分を分解してみました。すると本体からの配線が切断していることがわかりました。可動域の部分でしたから負担が限界に達したのでしょう。家電を分解すると感動することがよくあります。今回も、この僅かな部品の隙間によく二本の線を通したな・・・と驚きました。さすがに切れた線を5mm延長して半田付けして元の状態に戻すことは、私には出来ませんので、配線を一旦外に出して、また戻すという簡単な修理にしました。ですが見た目がとても変です(下部写真参照)。でも、これで以前と同じ様に使えるようになりました。私は一人悦に入っていたのですが、妻は「次はコード式にしようかな・・」と新しい掃除機が欲しかったようでした。そういえばコードレスの割に重い・・と言っていました。「直ったの!」のリアクションがいつもより低かったのもうなずけました。
さて冒頭の聖句は、旧約聖書の中の一節で、当時農具を修理するのにそれなりの費用がかかったことが記されています。壊れた農具を修理するのは当時鍛冶屋の仕事でしたが、当時のイスラエルは鍛冶屋を営むことが困難な事情がありました。西の勢力であるペリシテが、イスラエル(ヘブル人)が剣や槍(やり)を製造して抵抗したり、攻撃されたりすることを恐れて作らせないよいにしていたからです。それで、修理が必要な時は、ペリシテまで行かなければなりませんでした。農業に従事する人にとってこれは大変な負担です。ペリシテには、大男の種族もいましたので、そう簡単に現状を変えることはできませんでした。
神は、争いが絶えないこの地に平和を回復するために一人の王を立てます。でもその回復の道も簡単ではありませんでしたし、時間もかかりました。平和とは、剣で血が流れないだけでなく、子どもが子どもらしく遊ぶことができ、農夫をはじめ様々な業種が本来の作業に安心して専念できることではないかと思います。
2024年2月13日(火)更新
「わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」
マタイの福音書25:36
立春も過ぎて、暦の上では春を身近に感じる季節になりましたが、道内はもうしばらく寒い日が続きます。私は今、教会の事務室で(牧師室はない)パソコンのキーボードに触れていますが、指先が凍傷になりそうです。室温-4度ですから仕方ありません。あまりの冷えに作業を一時中断しました・・・。いつもはストーブをタイマーセットしているのですが、月曜日はお休みを頂いているので火曜日は教会に来てからスイッチを入れます。年に数回、寒さに耐えれば良いことなのでそれほど苦ではありません。室温が少しずつ上昇して+10度位になると”すごく暖かく感じる”から不思議です。
冒頭の聖句は、イエスが羊とやぎ選別の中で語られたものです。祝福された羊、御国を受け継ぐものとされた人たちは、弱く小さな者たちが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときには飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸のときには服を着せ・・・と見返りを求めない隠れた善行をしてたと言います。冒頭に〝わたしが・・・”とあるように、最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです(40)と記しています。それらの行為はイエスに対してなされたのだとみなされたのです。
ウクライナの戦地でも能登半島の被災地でも厳しい冬を着の身着のままで過ごさなければならない人たちがいます。私たちは、直接何かを届けることはできませんが義援金、募金等何かの形で思いを伝えることはできるでしょう。冷える体に一枚の毛布があれば、一杯の暖かいスープがあれば・・自分が受ける側に立つことができれば、そんなに構えず自然に出来るかも知れません。そんな思いで行動することができるなら、たとえ小さな行為であってもとても大きな価値があります。
2024年2月6日(火)更新
「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」 マタイの福音書7章12節
私は子どもの頃、父から〝やられたらやり返せ“と言われました。どんな状況でかけられた言葉か思い出せないのですが、二人の姉の下、末っ子として育った私は、父から見て不甲斐ないところがあったのでしょう。
❝やられたらやりかえせ❞は、一般的ではないかと思いますが❝人からされて嫌なことは、自分もしない❞は、恐らく皆さん子ども時代に親から言われ、その後も意識していることではないかと思います。皆がそのとおりしてくれれば良いのですが現実はそうではありません。もしかすると「されて嫌なこと」を他の人にすることでうっぷんを晴らすのか、そもそも「されて嫌なこと」とは何かがわからない人がいるのかも知れません。
冒頭の聖句は、イエスが語られたものです。人からされて嬉しいこと、人にしてもらいたい事なら容易に思いつくのではないでしょうか。心のこもった言葉や支援、辛いときにはそっと見守る距離感、失敗は責めずに次に期待してほしい・・・総じて言えば、ありのままの私を受け入れてほしい、欲を言えば愛してほしいということになるのではないかと思います。それを他の人にしなさい・・・というのですから、もしできたら何という素晴らしい世界になるでしょうか。でも、現実はそうではありません。わかっていながら・・・できないというところでしょうか。
「これが律法と預言者です。」は、旧約聖書を要約した表現で、イエスが別のところで〝心から神を愛すること〟と〝自分自身のように隣人を愛すること“この二つを大事な戒めとして取り上げたことに共通しています。神の教えは昔から変わっていないということでしょう。
神は、私たちが互いに愛し合うことを願っている・・・のではなく命じています。私たちにとってこの世界が生きづらいものとなっているなら、自己主張ばかりで愛すべき他者が存在しない人が増えたのかも知れません。もしそうなら孤独な人も増えたことになります。自分と同じように他者を見ることは確かに容易ではありません。そもそも考え方も育った背景も異なるはずです。それでも共通の何かを模索することはできます。まずはそこから始めてみるのが良いでしょう。神は、出来ないことを責めるお方ではなく、遜って前に進もうとする人を応援してくださいます。
2024年1月30日(火)更新
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネの福音書8章32節
安倍元首相銃撃事件(2022)に端を発して、某宗教団体が注目されるようになりました。親が熱心な信者で子どもが生きづらさを抱えている状況を宗教二世としてメディアが取り上げていました。かつて輸血問題で話題になった宗教団体も含まれていました。私たちには「信教の自由」という権利があり宗教への参加は自由で強制もされないはずです。現状は異なっていても外から意見するのは、余程の事がない限り憚られます。
あるドキュメンタリー番組で、母親が宗教活動に熱心で子どものバイト代も献金され家は貧しく辛かったと二世は語りました。別の親子は、息子さんが何を言っても聞かない母親でしたが、息子さんの〝うちは幸せじゃないよね〟のことばに、これまで幸せになろうと頑張ってきたのに、そうでない現実を認めざるを得ずお母さんは疑問を感じるようになります。後、脱会に至りました。
何も信じるものがないより、あったほうが良いと思いますが、どうせなら確かなものを信じたいと思います。でも人は、真実だから信じるというより、信じたものを真理と思うようです。視野が狭くなった中で与えられた機会、関係は特別視しやすいこともあるでしょう。
冒頭の聖句は、イエスが語られたものです。「真理」に言及するのは哲学か宗教でしょう。辞書は真理を〝誰も否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実〟と説明しています。一方聖書の原語は、真理、真相、本当、実際の意味があります。人の思索探求の産物ではなく、手に触れたり実感できるものだといいます。イエスは「わたしは真理であり・・」と言われました。大胆な発言です。〝真理を知っている〟と宗教を興す人は多くいますが、自分が真理だと言った人はいませんし、言えばいつかぼろが出るからです。
信仰を持つと束縛されるのでは・・と思う方がいます。真理でないものを真理と思い込むと視野が狭くなり、ますます不自由になります。イエスの十字架と復活の事実は、私たちが様々な束縛から解放されて自由になることを意味します。聖書の別の箇所ではこれを〝たましいの安らぎ〟と記しています。真理とは何か・・学ぶというよりへりくだって心の目で見ることにより見えてくるものかも知れません。真理は私たちの人生を豊かに、また確かなものにするでしょう。
2024年1月23日(火)更新
「するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、」
使徒の働き9章18節
東京上野の美術館に「カラバッジョ特別展」を観に行ったのは、三十代前半の時でした。宗教画に興味を持ち、自分でも描いていましたが、この時初めて自分の背よりも大きな絵の前に立ち、作者の情熱と意図を感じました。それまで本や映像で知っていた世界に、一歩足を踏み入れたような感覚でした。
長女が生まれたとき、初めての育児で疲れていた妻の負担を減らそうと、私は積極的に家事に参加しました。もともと料理は好きな方でしたから苦になりませんでした。ところがあるとき〝子ども見ていてくれない〟と妻。私が台所に立つよりも妻が自分の時間を持つことを望んでいることがわかり、その日を境に子どもへの関わり方が変わりました。それまで、わからなかったこと、見えていなかったものが見えるようになったとき〝目から鱗・・・〟といいます。
「目から鱗」の出典は、冒頭の聖句になります。サウロは、新約聖書に含まれる手紙を複数書いた伝道者ですが、元々キリスト者を迫害する熱心なユダヤ教徒でした。彼は、十字架につけられたイエスを、神を冒涜する偽救世主と決めつけイエスを信じる人がいれば、家に押し入って男女を問わず引きずり出して容赦なく牢に入れていました。そんな彼に転機が訪れます。
ある日、いつもように迫害しようと北に向かう道で、突然天からの光に照らされ「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」の声を聞きます。「主よあなたはどなたですか」の問いに対して「わたしは、あなたが迫害しているイエスである・・・」の返答に彼は衝撃を受けてしまいます。その後、サウロは、目を開けていたものの何も見えず、三日間飲食をしませんでした。ショックで何も手に付かなかったのでしょう。その後、神から遣わされた人によって祈られ、サウロは再び見えるようになります。以前とは、ものの見え方が大きく変わりました。
小さな気づきは、日常しばしば起こります。人生を変える大きな転機は、自分からではなく与えられるものです。目が開かれる・・・というではありませんか。
2024年1月16日(火)更新
「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」 マタイの福音書7章2節
杖を使うようになり、また、安静にしている効果もあるでしょう。膝の痛みが少し緩和され、少しずつ動けるようになってきました。何から何まで妻の助けを受けていましたので、その都度、「ありがとう。助かるよ」というと妻があるとき「私もしてもらったから」と言ったので、照れ臭くなった私は「そうだな、弁当は作るし(毎回でない)、食器の片付けもするし、肩もみもするからな(頭痛対策)・・・」といつものように軽く返すと「自分で言うかな・・・」とあきれ顔の妻、私は、返しを間違え、気まずくなりまりました。
家族に何かするとしても、それは家族としてできることをしているだけのことなので、誇るようなものではありません。私たちは、してあげる立場から、してもらう側に、その逆になることもあります。”お互い様”は、まず家族の中で体験することなのかも知れません。
冒頭の聖句は、イエスが語られたもので、前節には、「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」とあります。”さばく”とは、人の善悪を判断する裁判官のようにふるまうことです。もちろん、自分の価値観、倫理観に従って判断し行動することは必要なことですが、その判断は必ずしも正しいとは限りません。そもそも自分には甘く、人には厳しいのが私たちの本質ではないでしょうか。これは、家族にも他者との関係の中にも見られるものです。
人をどのように判断するか、その基準の枡(マス)が小さければ、何度も量らなければなりませんし、枡から溢れるものあります。枡が大きければ、一回で大体このくらいと量ることができます。0・01mmまで測れるノギスなら正確な長さを計測できますが、親指と人差し指で約19㎝と測ることもできます。自分は、おおらかに受け入れて欲しいのに、人は、細かく計測するのは身勝手ではないでしょうか。イエスは、”あなたが量る秤で量られる”と言いました。聖書の別の個所では、”与える者に・・与えられ・・・気前よく量って懐に入れてもらえます”とあって、人を寛容に受け入れ、誠実をもって関わるとき、自分もそう受け入れられ、誠実な関係が与えられるといっているようです。もちろん、いろいろな人がいますから全員とそうなるとは言えませんが、少なくても自分が持っている枡(マス)がどのようなものかがわかれば、他者との関係も変わるのではないでしょうか。
神は、私たちのあら捜しをするようことはなさらず、受けれて下さいます。人がまるで神であるかのように人を裁くことは、勘違いと愚かさの結果であることがわかります。
2024年1月9日(火)更新
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」
コリント人への手紙第二4章18節
2024年元旦の夜、私は膝の痛みで歩けず、テーブルや食器棚に手を置いてやっと移動していました。2022年2月に膝の人工関節の手術を受けたのですが、痛みがとれず、その後も不定期に痛み止めを飲んでいました。ところが、調子づいて除雪をしたせいか二三日前から膝がひどく痛み出し、元日の夜には、痛みで歩けなくなってしまったのです。病院は休みです。受診しても恐らく痛み止めの薬が変わるくらいでしょう。以前から、痛みがとれなければ、再手術を考えていましたから、元旦からとても憂鬱でした。水を飲むのも、食器を片付けるのも自分で動けないので全て妻の助けを借りました。翌日、妻に杖を買ってきてもらい少し動けるようになりホッとしましたが、片手しか使えません。これから先のことはわかりませんが、この状況に慣れなければ・・・と気持ちを新たにしました。
冒頭の聖句は、私たちの肉体が衰えていく中で、内なる人(内面の人間性、霊的人格)は、かえって新しくされることを伝えています。
私は、半月板、前十字靭帯等、膝の手術を何度も受けているので、40代からスポーツは諦めていますが、それでも60半ばで杖を使うようになるとは思いませんでした。出来ていたことが出来なくなる・・・落胆しない人は、いないでしょう。
若さが一時的であることは、だれもが認めるものですが、聖書は、見えるものすべてが一時的であるといいます。長くて100年ほどの人生は、労苦も栄光もあるでしょう。でも、総じていえば、悩み、苦難が多いのではないでしょうか。しかも晩年は、例外なく、老い、死と向き合わなければなりません。見えるものは、やがて見えなくなります。私たちは、見えるものを意識せずには、生きられませんが、見えるものだけに目を留めていたのでは、いつか先がなくなるのです。
聖書が見えないもの・・・というとき、イエスの復活と信仰に関係しています。永遠に続くものに目を留めるとき、朽ちていくものは、それほど気にならなくなります。
今年一年があなたにとって良い一年となりますように!
2024年1月3日(水)更新
「男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」ルカの福音書2章7節
チャールズ・ディケンズ(1812-1870・英国)の「クリスマス・キャロル」には、強欲な守銭奴スクルージが登場します。三人のクリスマスの霊によってスクルージの過去、現在、未来の様子が映し出され、彼の人生が変わっていくのですが、物語の中で現在のクリスマスの霊が見せる場面が印象的です。大男が部屋の中央にうずたかく山となった肉類、特大のケーキ、オレンジ、リンゴ等々、部屋中甘い香りが満ちる中で大男が長椅子でくつろいでいるのです。今日のクリスマスが豊かと繁栄を楽しむ行事になっているということでしょうか。作者にそのような意図があるのかないのかよくわかりませんが、クリスマスといえば、パーティーや豪華なディナーを想像するなら少し違う視点を持ってよいでしょう。ディケンズは、身なりがみすぼらしく、取り立ててどうということもない家族が満ち足りて和気あいあいとクリスマスの食事を楽しむ様子も描いています。
田舎で育った私は、子ども時代クリスマスが楽しい行事だった記憶があまりありません。西洋のお祭りという感覚だったのでしょうか。それで寂しい思いをしたことはありませんが、大人になってクリスマスの意味が少しわかるようになって、キリスト教に興味を持つようになりました。
冒頭の聖句は、イエス・キリストが生まれた時の聖書の記述です。当時勅令が出され、自分の町に帰って住民登録をしなければならなりませんでした。ヨセフは、妻マリアが臨月だったにも関わらず、長旅をしました。しかし宿屋がいっぱいで部屋をとることができず、やむを得ず家畜小屋で出産をすることになります。それで生まれた幼子は飼葉桶に寝かせられることになりました。御使いによって預言され、神の聖なるいのちとして生まれた割には、ひっそりしているどころか、不衛生で劣悪な環境といえましょう。でもそこに羊の群れの夜番で野宿をしていた羊飼いたちが駆け付けます。彼らは、神の使いから「救い主誕生」の知らせを聞いて、本当かどうか確かめようと捜して辿りついたのです。羊飼いたちは、飼葉桶の幼子イエスを見てよろこび、神をあがめ、讃美しながら帰ったと聖書にあります。クリスマスの原点は、ここにあります。クリスマスを誰と過ごすか、どんな料理を頂くは、大事なことではありません。最初のクリスマスは、豪華な食事も贈り物もなく、ただ神の救いを喜び味わう素朴なものでした。
神が救い主を送られたのに、救い主は、世から無視され居場所がありませんでした。その後、イエス暗殺計画が明らかになり、それを避けるために両親は、幼子を抱えて隣国に逃げなければならない時もありました。イエスを育てたヨセフもマリアも裕福ではなく、むしろ貧しい家庭でした。それでも彼らには、神の守りと祝福があったので平和で穏やかな日常がありました。
華やかなクリスマスが悪いわけではありません。星に導かれて幼子イエスを探し当てた東方の博士たちは、裕福な人たちでした。彼らは、黄金、乳香、没薬を持参して贈り物として献げたと書かれています。
豊かな人も貧しい人も、それぞれの仕方で救い主の誕生を喜び、お祝いすることが、本当のクリスマスになります。
2023年12月26日(火)更新
「たまたまプブリウスの父が、発熱と下痢で苦しんで床についてた。パウロはその人のところに行って、彼に手を置いて祈り、癒した。」 使徒の働き28章8節
数十年ぶりだと思います。38度を超える発熱で三日ほど寝込みました。喉もヒリヒリ痛み、ピーク時は唾を飲み込むのも辛く、くりゃみや咳をしようものなら、痛くて思わずウヴぁ~と悲鳴めいた声が漏れました。新型コロナウイルスに感染したのです。ワクチンは、三回打っています。それ以後受けていないのは、感染しないと高をくくっていたわけではなく、ワクチン陰謀論を信じたわけでもなく、ただキリがないのではないか・・・といった漠然とした理由からでした。
私のまわりにも罹った人はいますが、症状が軽く済んだ人と大分つらかった人とやはり個人差があるようです。発熱自体が珍しい私としては、頭痛やひどい倦怠感に加えて心房細動の症状も出てしまい、重い方だったのではないかと思います。ちなみにコロナ感染によって心房細動を発症するリスクは高まり、併合だと死亡のリスクも高まると報告されています。どうりで病院でコロナ陽性が診断された際、基礎疾患があるのでとウィルスの増殖を抑える薬を処方されたわけです(9千円は痛い)。
治療のために私にできることは、神にあわれみを求めて、頂いた薬を飲んで寝て休むことだけです。
冒頭の聖句は、伝道者パウロが乗った船が難破し、漂着したマルタ島での出来事です。島の長官プブリウスという名の人の所有地で過ごすことができたパウロは、長官の父親が病んで床についていたことを知って彼を癒してあげました。病の詳しい描写はありませんので、どんな病であるか推測の域をでませんが、よく下痢をする私としては、下痢は辛い、発熱も辛いということだけはわかります。それが癒されたのですからその喜びはどれほどだったでしょう。
この癒しは、病人から懇願されたのではななく、気が付いたパウロの方から向かって行ったようです。
今も回復が困難な病は沢山ありますし、癒しを神に祈っている方も大勢いると思います。神は、一人一人の病をご覧になり、ある人のところには、御使いを遣わし、ある人のところには、人を遣わし、ある人のところには、聖霊を遣わしておられるように思います。私も今回、倦怠感と頭痛と不整脈による不快な時間のなかにあって、主の御手の中にいるような感覚を覚えました。病の中でしか気づけないことがあります。健康のありがたさだけでなく、神のあわれみもその一つなのかも知れません。
※ちなみに私の回復と妻の感染が絶妙なタイミングでなされ、昨日より世話人役が入れ替わりました。
2023年12月19日(火)更新
"イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」"マタイの福音書 4章 4節
妻がパン好きなこともあって、朝食はパンが定番です。玉子焼きなどもありますが6枚切り食パン一枚だと物足りなくて、ご飯も少し食べる事があります。たぶん食べ過ぎです。自分でパンを焼くこともあります。子どもたちがいた時は、食パンの型を購入したり、天然酵母パンも作ってみました。膝を悪くしてから生地をこねるのを餅つき機に任せたところ、“美味しくなった”と評判で、手ごね時代の不十分さが明らかになってちょっと複雑な気持です。
人はパンだけで生きるのではない‥と聞いて、そうだ、副菜、おかずも果物も必要だという人は、さすがにいないと思います。これは食生活の話ではなく、生き方について語ったものです。
人は、食べ物さえあれば、人として成長できるわけではありません。周囲の人、友人などから信頼、友愛など与えられ受容を学んで人として成長します。これらは物ではないので見えませんが、言葉や態度で知ることが出来ます。
冒頭の聖句は、イエスが荒野で悪魔の試みを受けたときのものです。断食で空腹だったイエスに悪魔は「あなたが神の子なら、これらの石をパンになるように命じなさい」と言います。あなたは特別な力があるのだから、それくらいしたらどうだということでしょう。食欲は、人の自然な欲求の一つですから、イエスが神の子として行動する上で何か一つでも汚点になるようなことをするように、悪魔は期待したわけです。ところがイエスは、冒頭のように答えました。
旧約聖書は、荒野を放浪した民に神が天からパンを与えた事を記しています。「神の口から出る・・ことばで生きる。」は、その民に与えた神のことば、諭しの数々を指しています。旧約聖書からの引用なので『』にくくられています。
実際私たちは、パンがなければ生きることはできません。ですからイエスは、“だけで生きるのではなく”と言われました。確かに勉強だけしていればよいわけではなく、健康だけを求めても、お金だけあっても・・・望むような人生を送ることは難しいものです。
今日、私たちに対する誘惑は、自分の知識や経験だけに頼るように誘われているのかも知れません。あるいは、逆に何も正解はないのだと。誘惑は、どんな状況でも起こります。誘惑に負けてその後の人生が変わってしまうこともあります。聖書には、誘惑に負けた人も退けた人も出てきます。自分を過信せず、謙遜であることが誘惑に対処する最も良い方法でしょう。神のことばである聖書を開けば、人生を導く金言と出会うでしょう。食べ物があって健康であることを感謝するだけでなく、受け入れられ、愛され、生かされていることに心から感謝が生まれるようになると思います。
2023年12月12日(火)更新
「傷もなくけがれもない 子羊のようなキリストの、尊い 血によったのです。」
Ⅰペテロ1:19
昨年買ったポインセチアは、その後、剪定しておいたので、今年の春には、芽が出て枝を伸ばしました。今年のクリスマスに講壇を飾ることを夢見て9月下旬から遮光(日照時間を抑制して苞部分を赤くする)しました。一か月以上続けましたが、上部のほんのわずかしか赤くなりませんでした。しかも想定したよりも木が大きくなってしまいました。折角一年かけて育てたので、何とか使いたかったのですが・・・・あきらめて新しいポインセチアを購入しました。※写真の右側が購入したもの違いは一目瞭然!
この時期、鉢植えのポインセチアの赤は、とても目立ちます。この綺麗な赤色の為にプロの技術と知恵があるのだと改めて思いました。
ところで、クリスマスの時期になると赤と緑、金色をよく目にしますが、赤が血を表していることは、多くの方がご存じなのではないかと思います。今は、大概のことはネットで調べられるので便利です。クリスマスの赤は、キリストの血を表したものですが、幼子イエスの誕生の喜びと、むち打たれ、十字架刑で流れた血が結びつかない方がいるかも知れません。
冒頭の聖句は、古い生き方から新しい生き方に変えられたことを説明している中の一節です。イエスの十字架が、神にささげられる傷のない家畜に重ねられてています。傷のない犠牲の動物、以上に聖なる価値あるものとしてイエスが捧げられたから、私たちの罪が赦され、神に受け入れられ、聖なるものとして、私たちは全く新しく生きることができるようになったのだと説明します。
クリスマスは、誰にとっても人生、生き方が変わる大きな出来事といっても過言ではありません。
2023年12月5日(火)更新
「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」
ヘブル人への手紙7章25節
牧師になる前の話です。大分前になりますが、消防士時代、埼玉県に一つある消防学校救助科で約一か月、救助の知識、技術等を習得する機会を頂きました。いわゆるレスキュー隊員になるための準備です。体力に自信のあった私は、訓練は苦ではなくやりがいのあるものでした。教官の「自分の命を守れない者は、人の命は救えない。」の激励に改めて自己鍛錬の決意をしたものです。火災、事故、災害など、救急隊員としても現場に向かいましたが、危機的状況から間一髪、要救助者を救い出したという記憶はありません。救急車内で心臓マッサージを何度も施しましたが、それで息を吹き返したケースは、他の隊員はありましたが、私はありませんでした。誰かの助けにはなったと思いますが、”救った”と言えるようなことはなかったと思います。ドラマチックなことはそうあるわけではないのかも知れません。
「救い」とは、困難な状況から解放されて、ホッとする状態といえるでしょう。
イエスの救いは、神と人間を隔てていた罪がゆるされて、神との関係が回復することを意味しますが、それは宗教的な救いで自分には関係ないと思うかもしれません。
イエスは、貧しい大工の子としてマリヤから生まれます。成長したイエスは、貧しい人達、虐げられた人たちに寄り添い、病を癒す奇跡の力によって様々な苦しみからも人々を救いました。十字架で死なれたのは、人の罪が赦されるには、犠牲の血が流されなければならなかったからです(旧訳聖書)。しかも十字架には自ら進んで行かれました。病や差別に苦しみ、死を恐れ、愛されないことに苦しんだ人たちを、イエスの十字架は救ったのです。
イエスの十字架を我がため と受け入れる人は、神に愛され、受け入れられています。この救いは、完全でその後も変わることがありません。イエスのとりなしが今なおなされているからです。
2023年11月28日(火)更新