絵画の分類の一つに「聖画」があります。狭い意味ではイコンを、広い意味では、聖書の人物を主題にした宗教画を指します。
田中牧師による作品(模写含)を紹介ます。
「聖マタイと天使」
グイドレイニ/模写田中真介/F15号
イエスの弟子、マタイが聖書を記述する様子が描かれています。天使が描かれているのは、神と人との中間的な存在として神の意思を人に伝えたからでしょう。聖書には、子どもの天使に関して記述はありませんし、マタイが天使に導かれて聖書を記したとも書いていません。実際は、聖霊によって導かれた弟子たちが聖書を書き記したのですが、天使に関する様々な伝承、伝説が生まれたことがこの絵の背景にあります。
「大公の聖母」
ラファエロ/模写田中真介/F12号
ロレーヌ家のフェルデナンド三世、トスカナ大公が片時も離さないほどこの絵に愛着を持っていたと伝えられています。
聖母画の特徴は、慈愛に満ちたその表情でしょう。まだ人生の悲哀を知るよしもない乙女が、我が子の将来の苦しみ、栄光を心に留め、信仰による平安を得ていることから生まれるものでしょう。人が求めて止まないものは、この“ほほえみ”なのではないか・・と模写をしていて思いました。
「聖家族」
フランチェスコ・マンチーニ/模写田中真介/53×45.5㎝
原画には、家族の背景に三人の天使が描かれています。練習のつもりで描いたものなので省略しました。
ユダヤのベツレヘムでイエスが生まれたとき、ユダヤの王はヘロデでした。旧約聖書に”イスラエルを治める支配者がユダの地、ベツレヘムから出る”と書かれていたことから、ヘロデは自分にとって代わるかもしれない幼子の出現を恐れました。ヘロデは、幼子を捜して殺すつもりでしたが、見つからず・・・ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男子を殺害する暴挙に出ました。夫ヨセフは、夢で幼子と母を連れてエジプトに逃げるように促され、ヘロデの虐殺の難を免れました。
聖家族の旅をテーマにした絵画は、その背景の悲惨さと相反するかのように平和に満ちた描写が多くあります。この作品もその一つです。家族の平和について考える機会にもなるでしょう。
「大工のヨセフ」
ラ・トゥール/模写田中真介/30号
イエスの父は、田舎町ナザレの貧しい大工でした。彼は、ダビデ王の子孫であり、また、敬虔な信仰者でした。
当時、誰もがそうしたようにイエスも家の仕事の手伝いをしました。イエスは、貧しい家庭に育ちましたが、両親に愛され、神の祝福に満ちた家庭でした。愛と信頼の絆で結ばれ、神の平和と恵みが豊かにありました。
「良きサマリヤ人」
田中真介/10号
新約聖書にこんな話があります。
あるとき律法の専門家(宗教指導者)が「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることが出来るでしょうか?」とイエスに質問しました。彼は、宗教に熱心で自分は正しく生きているという自負がありました。
イエスは、「律法に何と書いてありますか?あなたはどう読んでいますか?」と逆に尋ねました。彼は、自信を持って神を愛すること、そして隣人を愛することだと答えました。その通りだとイエスはほめましたが、続いて「それを実行しなさい」と言いました。
自分がまるで実行していないかのように言われた律法の専門家は、ムッとしたのでしょう。私の隣人は誰かと聞き返しました。彼にとって隣人とは、同胞のことでした。
イエスは、たとえ話をしました。
あるとき、旅人が強盗に襲われ半殺しにされてしまった。そこに当時社会で大きな力を持っていた宗教指導者が通りかかった。だが彼は道の反対側を通り過ぎた。二人目も尊敬されていた宗教指導者だったが、彼も関わりを避けて素通りしてしまった。
三人目にサマリヤ人が通った。当時の宗教感覚からすると一段低く見られていた人でした。サマリヤ人は、襲われた人に寄り添い、宿屋に連れて介抱し、お金も払ったというのです。イエスは、誰が旅人の隣人になったかと尋ねました。答えは明らかでした。
イエスは、このように生きなければ人は救われないといったのではありません。もしそうなら誰も救われません。そうではなく、自分は知っている、正しいと人を見下すのではなく、神の前に遜って生きること、罪人の友、隣人となられたイエスを信じることで人は救われる・・・ということを教えたかったのです。
人は、正しい答えを知っていることで満足するかも知れませんが、その正しさが生き方に反映されなければそれは、単なる知識に過ぎません。それは、知らないことより悪いことかも知れません。
「ベテスダの池でのいやし」
カールヘンリック・ブロック/模写田中真介/F15号
エルサレムにベテスダと呼ばれる池がありました。主の使いが降りてきて水を動かすと、最初に水に入った者がいやされる・・と言われていた池です。大勢の病人がそこに集まり、その時を待っていました。そこに38年もいやしを待っている男がいました。でも病気が重かったのでしょうか、水に入ることが出来ませんでした。そこにイエス・キリストが現れて、彼に“起きて、彼に床を取り上げて歩きなさい!”と声をかけます。すると彼は病がすぐに治って歩き出しました。イエスは自分の名前も告げずにその場を立ち去ってしまいます。癒やしの奇蹟の一つではありますが、いやされた男は、どんな気持ちだったのでしょうか。礼を言う暇もなかった出来事ですが、その後、この男は、神殿で主イエスと再開します。いやされた男は神にお礼を言いに行ったのかも知れません。そのとき、主イエスは、彼に「・・もう罪を犯してはなりません・・」と告げています。重い病気よりも恐いのは、罪の自覚がないことなのかも知れません。
マグダラのマリヤ
田中真介/30号
聖書にはマリヤという名前が何人か登場します。彼女は、出身地であるガリラヤ湖近くの地名が付けられています。
彼女は、複数の悪霊に憑かれていました。その当時の彼女の様子を伝える聖書の記述はないのですが、悪霊につかれた人の事例はいくつか記されています。それによると、引きつけをおこしたり、機能障害を起こされたり、人格が別の人格に取って代わったりと社会生活のみならず日常生活もままならない状態であることがわかります。
彼女は、その当時、自分の体のようで自分の体でなく、自分の人生を生きているとは言い難い状態でした。
でもイエスによって解放され自分の人生を生きるようになりました。イエスに出会い、光の中に移されたマリヤは、人はどんな過去を持っていようと希望を持って光の中を歩むことができるという一例です。
「回心」Conversion
田中真介/530mm×410mm/2020年
人は、何かの機会にあやまちを反省して心を入れかえることがあります。入れかえることを自らに誓うといっても良いでしょう。度々とは言えませんが、私たちに”悔い改め”は起こります。
聖書にも”悔い改め”が出てきますが、これは神に対して罪を認め、赦しを請い、救いを求める意味で使われています。二つとも生き方が変わるという意味では似ていますが、自分の良心に照らした反省に対して、神に対して罪を認めるという違い、自分の願いが叶うことを幸いとする生き方から、神の願いが叶うことを幸いとする生き方の違いは大きなものです。前者が人生の軌道修正なら、後者は、方向転換といえるものです。改心ではなく回心と書くのも、進む方向が変わるためです。
私たちは、他者の罪、欠点は見つけやすく、現れた罪への批判は容赦のないものです。一方で、心に秘めた罪は、他者には知られず、隠し通すことも不可能ではありません。でも・・・人の心が神に向けられるなら自らの罪を認めざるを得ず、神に対して赦し、救いを求めるようになります。神に赦され、受け入れられることを通して、人は、何者でもない自分を全くすなおに受け入れることができるようになります。神に向かって生きる・・・新しい歩みが始まります。
「祈り」
田中真介/10号
祈りは、宗教性を与えられた人間の自然な行為だと思います。人は、自分の理解を超えた出来事に遭遇したとき助けを求め、或いは不測の事態の回避を願って・・・自分を超えた大いなる存在に祈ってきました。
子どもは、大人ほど言葉を理解していないかも知れません。でもこどもの祈りは素直です。純真な祈りはそれ自体気高く、恐らく年齢には関係がないでしょう。
祈りは神に向かい、神は祈り手を祝福します。ですから、苦しみや困難の中にある人も祈りを通して、神から平安を頂くことができるのです。
主イエスが弟子たちに教えた“主の祈り”は、今から約2,000年前と殆ど変わらない形で今日に受け継がれ、現在も多くの教会で祈られています。
「放蕩息子の出発」
田中真介/F30号
イエスのたとえ話です。ある人に二人の息子がいました。弟息子は、ある日、父に財産分与を願い出ます。それが受け入れられ、弟は、はれて大金と自由を手にして旅に出ました。
「放蕩息子の帰郷」
レンブラント/模写田中真介/F30
ところが、親の目の届かないとことで遊び回るうちにお金が底をつき・・・食べるものにも困るようになってしまいました。彼は、父のところに帰って雇い人の一人として働かせてもらおう・・・と思いました。遊びたくて、勝手に家を出て、挙げ句の果てに一文無しですから、さすがに息子としては面目がありません。とぼとぼと家路に向かいました。
ところが・・ 家までは、まだ大分あったのに父親は、先に彼を見つけて走り寄りました。父親は、息子の帰りを今か、今か・・と毎日待ち続けていたのでした。
息子の謝罪のことばを遮るように、父親は、しもべに、最上の洋服と履き物、指輪を用意させ、祝宴の準備を命じました。「息子が死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と大喜びでした。
弟息子は、自分が戻るべき所に戻ることが出来ました。また、一緒にいるときには気づかなかった父の深い愛を改めて知ることになりました。
これは、罪人が悔い改めて神のもとに立ち返るとき、神が喜んで迎え入れて下さることを譬えたものです。
「ゲッセマネの園のキリスト」
カールブロック/模写田中真介/サイズF50
イエスが十字架につけられる前、悶絶の祈りをしているときに、御使いが力づけた場面で、新約聖書ルカの福音書に22章に記されています。御使いは、天から現れることから空間を自由に行動できると考えられ、絵画では翼が描かれているものが多くあります。
罪のない神の御子、イエスが罪人とされ十字架刑に処せられる・・・この苦しみを私たちが想像できたとしても理解するのは、恐らく困難でしょう。
悶絶の苦しみの末、自分の使命を再確認するように神との対話を終えたイエスは、立ち上がって、裏切った弟子ユダを迎えます。この間、弟子には、祈るように要請していましたが、弟子たちは眠ってしまいました。このときイエスの苦しみを理解できたのは、御使いだけでした。
人は、誰もが慰めを必要としているのではないか・・また誰にでも使命が与えられているのではないか・・・そんなことをも模写しながら考えていました。
「茨冠のキリスト」
田中真介/4号
茨の冠は、イエスが自分で載せたのではなく、”ユダヤ人の王”だと自称したことへの(事実ではなく訴える為の口実だったが)皮肉、悪ふざけとしてローマ兵が作り載せたものです。「お前のような者はこれがお似合いだろう・・・」という事でしょう。
茨の冠は、「罪」の象徴であり、十字架上でもはずされなかったことから、「赦し」の象徴でもあります。主イエスは、十字架の上から「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と神にとりなしています。
「キリスト降下」
ルーベンス/模写田中真介/50号
イエスの亡骸を十字架から降ろしている様子が描かれています。
美術誌等には画面の主要な登場人物を次のように説明しています。赤い衣で受け止めているのが弟子のヨハネ、右側の黒衣がニコデモ、反対にいるのがアリマタヤのヨセフ。下には、イエスの母マリヤ、その下の足を受け止めている女性は、マグダラのマリヤ。その後ろは、クロパの妻マリヤ。
アリマタヤのヨセフは、有力な議員でした。当時の宗教勢力からして信仰を公にすることが出来ずにいました。でも、この時は率先して亡骸の受け取りを申し出ています。
ニコデモは、イエスと対立する宗教的立場の議員でしたが、イエスの人格、教えに惹かれ、人目を忍んでイエスを訪ねています。イエス埋葬の際には、人目もはばからずに手伝うようになりました。
聖書には、アリマタヤのヨセフとニコデモが埋葬した記述があります。でも下で受け止めているのが弟子のヨセフの説明には違和感があります。聖書にそのような記述がないからです。その辺は、カトリック信仰を背景にしたひとつの芸術作品として見るべきでしょう。一つの画面にこれだけの人物を効果的に配置されているものは他にないと思います。
画面構成の聖書的真偽は、いずれにしても、イエスを囲むように配置された人物たちは、イエスに愛され、人生を新しくされた人たちでした。イエスの十字架刑を目の当たりにして、愛と喜びに満たされた時間はすべて過去のものとなり、全てが終わったと思えたことでしょう。その深い悲しみは・・・・三日目に大きな喜びに変わります。それがイースター、復活節です。
画面の亜麻布が光に照らされ白が強い印象を与えます。画像ではよく分かりませんが、イエスの体に血の気が無く周囲の生き生きとした人物と対照的です。何故ここまでして十字架に掛かられたのか・・・模写しながら何度もこみ上げるものがありました。
「苦悩するヨブ」
田中真介/30号
旧約聖書の時代にヨブという人がいました。彼は、大富豪でした。信仰も篤く子どもにも、事業にも恵まれ幸せなを日々を送っていましたが、ある日を境に状況が一変します。
天災や強盗団が農場を襲い従業員や財産を失います。次に子供たち(10人)が集まっていた家が倒壊、全員亡くなりました。それでも彼は、「すべては与えられたもの
だから・・」と愚痴をこぼしません。
次に彼自身、全身に悪性の腫物ができて苦しみます。妻からは、神を呪って死ねば・・・とさえ言われます。 彼ほど、誠実な人はいないのに、これでもかと苦しみが襲います。後に、神から大きな祝福を受けるのですが・・・。
苦しみはどこから来るのか・・・何故正しい者が苦しむのか・・神を信じるとはどういうことか・・・等々いろいろ考えさせられます。
「聖ペテロの磔刑」
カラバッジョ/模写田中真介/91×72.7㎝
12弟子の一人ペテロは、64年皇帝ネロの迫害のときに殉教したといわれています。その際、彼はイエスと同じ十字架ではなく、逆さ十字刑を望んだとの伝承があることから、画家は大胆な構図で描いています。
ペテロは、弟子の中でも自分の信仰を買い被るところがあって、それが原因でつまずいています。でも、イエス復活の知らせを受けると墓に駆け込むなど、熱い人でもありました。
ペテロは、痛みの最中にあるはですが、彼の視線は人とは反対に向けられ、口はまるで近くにおられるキリストに”主よ”と訴えているかのようです。彼のたましいは、正に神のいのちに移されようとしていました。
以下は、ペテロの手紙の一節です。
「ですから神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。」(Ⅰペテロ4:19)
「トマスの不信」
グエルチーノ/模写田中真介/F8
原作は、弟子の一人のトマスが傷口に手を触れているように描かれていました。また、背景には他に三人の弟子が描かれています。練習用に描いたものなので、背景を省略しました。聖書には、トマスがイエスの傷口に触れたとは書いてないので、恐らく、触れるまでもなく信仰告白したのではないか・・・と思いましたので、模写では、トマスの手を傷口の数㎝手前で止めました。今となっては、作者に対して礼を失したかなと反省しています。
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