聖書の一節


※聖書の一節を紹介しています。讃美歌が流れますので音量にご注意ください。

原則毎火曜日更新(祝日を除く)

 

※聖書は、「聖書 新改訳2017」(©2017新日本聖書刊行会)を使用しています。)



「あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。」              エレミヤ書30章13節

 先日、整形外科と内科の受診の後、薬局に寄ってきました。改めて見るとその薬の量に驚きます(下の写真)。数年前まで薬局で袋一杯の薬を抱えている老人を見ては「すごい量だな・・」と思っていたのですが、自分もそうなっていました。私の薬は・・・しびれを緩和するビタミン剤、痛み止め、胃薬、血栓予防薬、心臓の薬、心房細動発作時の薬三種、+写真にはありませんが膝の湿布薬です。この他に脳の血栓を防ぐ薬、漢方薬も飲んでいます。薬を飲むとき手のひらの錠剤を見て「こんなに飲んで大丈夫か・・」と思うことがあります。どれも必要なものですが、とりわけ血栓を防ぐ薬は、後のダメージ(脳に移動)を考えれば、必須のようです。もし薬がなかったら・・・と思うとぞっとします。

 冒頭の聖句は、旧約聖書時代のユダ国が神への信頼を失い、他国の勢力に右往左往するなか預言者エレミヤを通して語られたものです。神が武力による他国の侵攻を許したので、ユダは傷つき痛みます。でも彼らの訴えを擁護する者も、腫れものに薬を付けて看護するものも、癒す者もいないといいます。これは、ユダに対する神のさばきでした。隣国に助けを求めても願うような結果は得られないと告げます。傷ついて助けを求めても、放置されるとしたらそれは辛いことです。でも、もし名医がいるにも関わらず、あの医師はイケメンだ、美人だという理由で深刻な病の治療先を決めてしまうとすれば、後に深刻な事態を招くでしょう。そうならないために下手な治療は却ってしない方がよいと言えます。神は、冒頭に続く箇所で〝わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒す。”(17)と言っています。わたしが癒すから、当てにならないものに頼って無駄な時間を過ごすな・・・ということでしょう。 

 私は信頼する医師に事情を話して服用を止めた薬もあれば、しぶしぶ飲むようになった薬もあります。素人判断で勝手に量を増減したり、止めたりすると治療の妨げになることがありますし、薬が却って害をもたらすことになりかねません。たましいの医者である神は、私たちに最善、最良の治療をして下さいます。

 

2024年5月14日(火)更新

 

 

 

 

 あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。

出エジプト記235

 最近、整形外科、循環器内科、血液外来と病院通いが続いていて重なるときは週に二度違う病院に行くこともあり、それなりに時間を取られます。近いとはいえ隣り町の病院に昨日(7日)行ったばかりです。その時、保険会社に提出する書類を書いてもらうはずが肝心な書類を忘れてしまったので、今日の午後もう一度行くことになりました。本当に忘れっぽくなって来ました。バタバタしているうちにあっという間に時間が過ぎてしまいました。

 冒頭の聖句は、旧約聖書にある神の命令のひとつでとても具体的です。“あなた憎んでいる・・”ではなく”あなた憎んでいる”とあります。自分が憎まれている・・ならその人とは関わりたくはないのではないでしょうか。自分を憎む人が困ったところで知ったことはない、むしろ、ほれ見たことか・・・となるかも知れません。でも、神は、あなたを憎む人がいるなら、その人が困っているときに助けなさい、と命じます。見過ごせば、ろばは重い荷のせいで傷ついてしまうでしょう。災難を見過ごしにしないで彼と一緒にろばを助けるため行動することで、憎まれている人に対する彼の憎しみに変化が生じることでしょう。

 私たちは人を憎むことがあるかと思います。憎むにはそれなりの理由があるはずです。そこに相手の悪意を見出す場合もありますが、こちらの過剰な反応による誤解や疑心暗鬼によるものもあります。いずれにしても悪化した関係を修復するには、真心からの善意が必要だということでしょう。神は、私たちが憎み合うのではなく、互いの必要を満たし愛し合うことを願っておられます。

2024年5月8日(水)更新

 

 

 

 

 

「人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。すべて、起こることは空しい。」                                                                                   伝道者の書118

 

 映画「生きる LIVING」を見ました(2022/英国)。主人公が英国紳士(役所勤務)だったので外国の映画になりますが、日本の作品(1952/黒澤明監督)のリメイクだそうです。

 真面目に仕事をしてきた初老の公務員男性は、ある日、自分が末期のがんであることがわかり、それまでの判を押したような生活に変化が訪れます。彼は、同じ職場いる若い女性の明るい性格に惹かれ、彼女と親しくなります。親しくといっても男女のそれではなく、先に妻を失い、同居する息子夫婦との関係がぎくしゃくするなかで得た友情のようなものでした。彼は、一時自暴自棄になってしまいますが、職場に戻って以前とは別人のように仕事に取り組みます。残された時間が短いことを受け入れ、悔いのない時間を過ごすしていきます・・・。

 誰もが幸せで充実した人生を歩みたいと願っていると思います。でも、その幸せとか充実とは具体的にどのようなことをいうのでしょう・・考えさせられる映画でした。

 

 冒頭の聖句は旧約聖書、伝道者の書の一節です。前節には、〝光は心地よく、日を見ることは目に快い“とあります。人生の中で光の中を歩むのは心地よいものです。誰もが強いスポットライトを当てられるわけではありませんけれど、心地よいときを過ごすことはあるでしょう。日の目を見ることだってあるはずです。ずっと楽しい時間が続けば良いですが、そうではないことを大抵の人は知っているのではないでしょうか。

 〝闇の日“は、光を感じることができない辛い日々と言えるでしょう。聖書は、それがたまにある・・ではなく〝多くある“と記しています。

 老年の域になれば、何かしら身体的に不具合が見つかっても不思議ではありません。血圧が高い、便秘気味、食事に偏りがある、運動不足の人は、何かしらの疾患が見つかるリスクは高いのだそうです。いきなり末期がんの宣告は珍しいかも知れませんが、誰もが楽しみを失うような、光を失うような闇の日を迎えるかも知れないのです。というかいつまでも光の中を歩めると思っていると闇が突然襲いかかってパニックになるかも知れません。今あるものはいつまでも続くわけではない・・そう心して来るべき日に備えることができるなら、空しさを最小限に留めることができるでしょう。

 

2024年4月30日(火)更新

 

 

 

 

「神は みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」     

                                               ピリピ人への手紙2章13節

 昨日、札幌の羊が丘展望台のクラーク像の台座のところにある「大志の誓い」投函者が累計10万人に達したと報道されていました。本州から旅行で訪れたカップルだそうです。観光地としても有名ですからいまさらクラーク博士像を説明する必要はないと思いますが「Boys be Ambitious!(少年よ大志を抱け)」は道外の方にも良く知られていると思います。私も札幌に住んでいた時がありますのでこの像は何度も見ていました。でも、台座に投函口があることは知りませんでした。「大志の誓い」を書くカードは一枚100円の保管料がかかるそうで札幌観光協会が保存し、後で自分の誓いを読むことができるそうです。そんなサービスがあることも知りませんでした。しかも、この像が建てられたのは48年前の4月16日、同じ日に10万人目の投函って何かすごい・・・とちょっと感動しました。

 大きな志をもってそれに向かって進んでいく・・・素晴らしいことです。若い方なら書きやすいかも知れませんが、年配の方はどうでしょう。どんな事を書くでしょうか。

 冒頭の聖句は、私たちの個人的な展望、夢とは異なり神が私たちの心に働きかけて志を立てるとあります。それは、自分がやりたかったことと重なる事かも知れませんし、全く思いもしなかったことかも知れません。いずれにしても、神に導かれるように、背中を押されるように目指すものが見えてくるということでしょう。

 人は誰でも善いことをしたいと願う思いがあります。人から善人に思われたいと思うところからそれをすれば偽善の香りが漂いますが、そんな人ばかりではないはずです。神は、人の心に働きかけて純粋な心で行動するように導いて下さいます。人は歳を重ねても聖なる志を持つことができます。

2024年4月17日(水)更新*昨日は朝から病院で・・・更新遅れました。

 

 

 

 

 

 

「天を仰ぎ見よ。あなたより、はるかに高い雲をよく見よ。」

                          ヨブ記35章5節

 いくつかの要因が重なって、肉体的にも精神的にも疲れてしまい・・・療養期間を頂きました。今週の日曜日の午前1030分、私は自宅で古い動画(以前の礼拝宣教録画)を見て、讃美歌を歌い一人で礼拝の時間を過ごしました。教会の皆さんと一緒に礼拝できないことが寂しく、改めて礼拝とは何かを考える機会になりました。

 療養の中心は、なるべく膝に負担をかけないように、将来を思い煩わないように(膝の治療、血液の病気の治療)ぼんやりと時間を過ごすことです。気を紛らわせるのにテレビやネットは、役に立ちますが次第に目が疲れたり、頭痛がするようになりましたのでベランダ側のサッシを開けて、外の空気を吸って青空とゆっくり流れる雲を眺めていました。思い通りにならない現実、晴れない不安を抱えている人が慰めを得られるとしたら、何でしょう・・・恐らく人のことばではないでしょう。もちろん、私の場合、痛みや病の原因が特定され、医師の説明や具体的な治療方針に慰められることがあると思います。けれどもそれは、治療に希望が見える場合ではないでしょうか。多くの人が具体的な希望が見えない中で空を見上げたのではないかと思います。

 冒頭の聖句は、深く悩み、苦しむヨブに対して友人エリフが語ったものです。神に深い信頼を寄せていたヨブがあまりの苦しみのゆえに神につぶやく様子をみて、エリフは、神がこの苦しみのときに答えて下さらないからといってヨブに関心を寄せていないはずはない、天を見よ、雲を見よ・・・あなたのはるか上を動いている・・・とヨブに対して上におられる神を見るように促しているようです。

 私は、これまで何度も入院したことがありますが、病院の窓から今日と同じように雲を見上げました。おそらく人生の儚さを寂しく思ったり、家族と会えない寂しさの中で、大切な人を思いながら空を見上げ、また戦場では、いのちの終わりに空を見上げた人もいるでしょう。雲の下には様々な事情を抱えた人たちがいます。私もその一人です。でもはるか高いところにおられる神が右往左往する私を見ていて下さると思うと心が晴れます。

 

2024年4月10日()更新

 

 

 

 

 

「わたしは よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は 死んでも生きるのです。」                                                                                                                                                             ヨハネの福音書11:25

 先週木曜日の夜、私は、救急車で病院に搬送されました。左膝人工関節の手術以来、この二年痛みがとれず痛み止め薬、湿布でなんとかやり過ごしてきたのですが、今年に入ってひどく痛む日が何度かあり、先日とうとう一歩も動けなくなってしまったのです。担架で狭い団地の階段を時間をかけて降ろして頂きました。病院に着くまで、時間にして恐らく20分くらいではないかと思うのですが40分くらいに感じました。その間揺れる度に激痛が走るので歯を食いしばりながらうめき声を上げ続けていました。 病院では、当直医が専門外のドクターだったため整形の先生を呼んで下さり、応急処置として膝に溜まった血を抜いて頂き、腫れが少し引いて少し楽になりました。でもまだ歩ける状態ではなかったのでそのまま入院しました。その後、痛みも大分治まり歩けるようになったので月曜日に退院しました。根本的な治療はまでできませんので、帰宅後自宅で安静にしていますが、またあの状態になったらどうしよう・・・と気が気でありません。思い出すと本当にぞっとします。

 3月31日はイースター、復活節を迎えて教会の礼拝後は、みなで昼食を楽しみました。今回は、パンとシチューを婦人の方々が用意してくれました。私は、まだ入院中でしたのでその様子を妻のスマホを通して見せてもらいました。

 イエス・キリストの十字架による罪の赦しと復活による永遠のいのち・・・を喜び祝うイースターは、教会の最も大切な祭事ともいえます。そのような喜びの中、私は、病院のベッドで膝を冷やしながら、この先どうなるだろうかと心配していました。実は、二年間通院して痛み止め薬しか処方されなかったので、意を決して転院を希望し紹介状を依頼した矢先の救急搬送でした。根本的な治療ができないまま、痛みだけを緩和する方法をまたこれからしばらく続けなければならず失望の中にいたのです。

 入院中殆ど横になっていましたので(トイレも車椅子)、退院後もしばらく体を横にしないと疲れて動けませんでした。頭痛にも悩まされこのコーナーの更新もままなりませんでした。膝以外にもいろいろあって心身共に疲れてしまったようです。実は、火曜日にこの原稿を準備し始めたのですが、途中で疲れて中断していました。

 随分否定的な内容になってしまいましたが神を信じる人も肉体的、精神的、霊的に疲れを覚えることはあります。具体的な弱さ、痛みに向き合うことがあります。その痛み、悩みが深ければ深いほど簡単な回答、慰めを見出すことは困難です。それは聖書でも同様です。でもイエスのことばには、回答と慰めにつながるものがあります。冒頭の聖句もその一つです。私は、今回の激しい痛みの中でも死を意識する程ではありませんでした(事故で大腿骨を骨折したときは悶絶した)。たとえ”死”を意識せざるを得ない状況になったとしても・・・十字架と復活この二つを経験されたイエスのことばが私を慰め、希望を与えて下さると信じています。

2024年4月6日(土)更新

 

 

 

 

 

「するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓いはじめ、『そんな人は知らない』と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。」マタイ2674

 

 キリスト教の暦では、今週は受難週。イエス・キリストが十字架につけられた金曜日を迎えます。クリスマスと異なりイースターは、十字架(処刑)からの復活という一般的には、目を背けたくなるような死と、よみがえりという極めて宗教的なテーマであるがゆえに扱いずらいのではないかと思います。でも、私たちの日常は、明るくポジティブな事だけではありません。むしろ、それまでの信頼、評判を裏切るかのような負の一面を誰もが多少なりとも抱えています。

 冒頭に名前が挙げられたペテロは、イエスの弟子の中でも聖書に何度も名前が挙げられている人です。また他の弟子と同様に数々の奇跡をイエスの傍らで目撃し、ある時は関わった人でした。彼は、どこまでもイエスに従うと心から願い、口に出してもいました。

 一方でイエスは、ご自分の十字架刑が近いことを知って弟子たちにそのことを告げますが、弟子たちは現実的に捉えることができなかったようです。奇蹟を起こし、人を愛し癒したイエスが罪人として捕えられることが想像できなかったようです。しかし、目の前でイエスが捕らえられ下役人等から暴行を受けている様子を見て弟子たちは恐怖を覚えます。「どこまでも付いていく・・何があってもつまずかない!」と言っていた弟子たちは、皆逃げ去りました。

 ペテロは、それでもイエスの逮捕後が気になって様子を見に戻って来ました。ところがその場に、ペテロがイエスの弟子であることを知っている女性がいて「イエスと一緒にいましたね」と声をかけられ慌ててしまいます。イエスの弟子だということが知れたら何をされるか分からないと恐れたのでしょう。それで彼は、イエスを知らない・・ことにしました。その後も二人に同様の声をかけらたのでその都度否定しましたが、次第にその否定は強いくなり、とうとう冒頭の聖句になりました。

 人は〝嘘じゃない“と声高に叫ぶときがあります。それが本当のときもあるし、それが嘘のときもある・・・悲しい現実です。

 イエスは、ペテロがこうなることを知っていました。事前にそのことを告げた時に、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」とペテロに告げていたのです。ペテロは鶏の鳴き声を聞いたときにイエスの言葉を思い出して、その場から離れ激しく泣いたことが聖書に書かれています。ペテロは、嘘をつくつもりは全くありませんでした。むしろイエスの弟子として生き抜くことを願っていました。でも予想外の現実に直面したしたとき自分が願うように行動できませんでした。理想とは真逆の行動をしてしまったのです。

 罪というと犯罪のイメージが大きいかもしれませんが、自分のことばに不誠実なことも罪に値します。犯罪を犯してしまうのはある種の弱さですが、正しく生きようとしても何だかんだと理由をつけてそうできないも弱さです。私たちは、皆弱く、理想はあってもその通り生きられないものです。イエス・キリストはそんな私たちの罪が赦され、神に受けいれられていることを証しするために十字架に掛かりました。ご自分の罪や死と向き合うことは気が進まないかも知れません。でも真摯に向き合うなら、ペテロがそうであったように十字架による赦しとイエスのことばによる慰めと希望を知ることができるでしょう。

2024年3月26日(火)更新

 

 

 

 

 

 

「彼はそれぞれその能力に応じて、一人には5タラント、一人には2タラント、もう一人には1タラントを渡して旅に出かけた。・・・」

                                        マタイの福音書25章15

 昨日、自宅の灯油タンクにポリタンクから灯油を補給しました。団地の灯油タンクは100L程で、残量が減ると用意しておいたポリタンクから自分で補給するようにしています(4個有)。ポリタンク容量は、18Lですが、補給の際、その量だと膝に負担がかかるので半分くらいの量を業者に入れてもらっています。昨日久しぶりに私が補給したのですが、その際、妻が「膝が痛くなるから止めたら、私するから・・」の声が聞こえました。私は「大丈夫!右足に重心かけるから・・」と人工関節の左膝をかばって作業を続けました。ポリタンク二つですから大した時間ではありません。ところが、今朝起きたら、右足の膝も痛いではありませんか・・。まさか、あの作業で・・と思いましたが詳しいことはわかりません。間違いないのは、昨年よりも大分移動(歩行)範囲が狭くなり、できることも大分減ったということです。

 能力を数値化するのに抵抗があるかも知れませんが、私たちは、それぞれ能力に違いがあります。冒頭の聖句は、イエスによる「タラントのたとえ」といわれるものです。神がそれぞれの能力に応じてタラントを渡したことが記されています。タラントは、当時の6千日分の労賃に相当しますので、強引に現在の円に換算すると3千万円くらいになるでしょう。誰もが手にすることができる額ではないと思います。

 イエスは、たとえの中で、主人がしもべたちにこのお金を預けて旅に出たと記されています。タラントは、神が私たちに与えて下さった能力、才能といえるものです。勉強ができて、スポーツも得意で、コミュニケーション能力に優れ、体形、容姿も性格もおまけに顔もいい・・という人がいないわけではないと思います。でも大抵はどれか一つか二つくらいあるものです。せっかく多く与えられても賢く、謙遜に用いることをしないで高慢に陥ってしまえば、自ら不幸を招くことなります。

 たとえの中で主人は、旅から帰ってタラントをどう使ったかを尋ねます。私たちは、それぞれ与えられたものが異なるかもしれませんが、与えられたものを大切なものとして活用し、自分の人生のためにも、神の御栄光のためにも用いることになれば、人生に後悔はないでしょう。

 私の見た目(体形等)は以前とさほど変わっていませんが、今は重い物は持てず、長く歩けず、杖をついています。でも出来ることはまだまだあります。タラントはとても価値あるもので、私にもタラントはあります。それは、私が人より何ができるかできないかということに表れるものではなく、人生の価値や真の幸福といった目に見えずらいものを見るところに最もよく表れてくるものだと感じています。

 

2024年3月19日(火)更新

 

 

 

 

高ぶりがあると、ただ争いが生じるだけ。知恵は勧告を聞く者とともにある。

                              箴言13:10

 東日本大震災から13年の昨日、当時の映像や13年後の家族の様子などを各報道機関が取り上げていました。この災害は、大地震と津波、放射能汚染等複合的な災害として私たちの記憶に刻まれています。

 二年前から続くウクライナの戦禍、昨年より続くイスラエルとパレスチナの出口の見えない関係などは、震災とは原因も過程も異なりますが、大切な人を失う喪失感、やり場のない怒りや悲しみには、通じるものがあるような気がします。イスラエルからのミサイル攻撃に怯え逃げ惑うパレスチナ人が報道陣のインタビューに「何故我々がこんな目に遭わなければならないのか」と答えていました。戦禍に関わらず災害の被害者でも納得のいく回答は得られないでしょう・・・。

 戦争は始めた人が止めることができる・・・といわれます。かつて日本も相手国をあなどり自国を過信して悲惨な戦禍をもたらしたことがありました。責任ある組織の長が高ぶれば、大事な進言が生かされることはないのでしょう。否定的な発言は敵対者とみなして排除するなら、進言そのものがなくなるでしょう。そこにあるのは、自己の正当性とそれを否定する者との絶え間ない争いではないでしょうか。

 冒頭の箴言は、争いと高ぶりの関係に触れています。人の上に立つ者には、知恵が不可欠ですが案外聞く耳をもっていない人が少なくないように思います。勧告は、〝そうした方が身のためだ・(当然そうすべきだ)ということを公的な立場から勧めること”(新明解国語辞典)と辞書にあります。なるほど自分が一番上だと思っているならその人に勧告できる人はいないのかも知れません。主イエスが〝聞く耳のある者は聞きなさい”といわれましたが、箴言が記録された紀元前もイエスが語られた二千年前も、戦争が止まない現在も、体質が変わらない組織も聞く耳をもてないから同じことが繰り返されるのでしょう。自分の上に真の神がおられる・・・そう受け止めることができるなら勧告もまた受け止めることができるでしょう。神は、私たちに〝ことば“をかけて下さいます。そのことばは私たちを知恵あるものとしして整えます。争うのに大した理由は要りませんが、争いを止めるには知恵と聞く耳が不可欠です。頭では分かっていながら、なかなできないというのが私たちの現実なのかも知れません。

 

2024年3月12日(火)

 

 

 

 

「エルサレムを山々が取り囲んでいるように主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。」                                                                                                                                                                                 詩篇1252

 私は義母の通院送迎のために砂川に行くことがあります。私の膝故に最近は病院の玄関まで送って、義母から連絡が来るまで砂川の図書館(火曜休館)のロビーで時間を過ごすことが多いのですが、今日は、何かイベントがあるのか駐車場が一杯で車を停められませんでした。それで少し離れた「遊水地学習館」に行きました。オアシスパークの管理棟と言った方がわかりやすいかもしれません。オアシスパークは、旧石狩川の跡地を利用して造成された水辺のレクリエーションエリアとして知られ、池の周囲を周る歩道は、バードウォッチングや自然散策を楽しむ方が多いそうです。管理棟は一般に開放されており、休憩所としても利用できますので、私も休憩やトイレ等よく利用させて頂きました。エレベーターがあるので今回はじめて三階の展望室に上がってみました。室内には、西の山々の名称と標高が書かれたイラストがあり、また小さな絵が沢山飾ってありました。残念ながらこの日は曇り空で山脈は見えませんでしたが、室内に流れるオルゴールと木製ベンチでとても安らぐ空間でした。それにしても、空知の西側、千メートル級の山々があることは見れば分かりますが、殆ど名前を知らないことに我ながら呆れます。暑寒別岳・・・名前は知っているもののどれがその山であるか指を指せないのです。山歩きができない(膝)私にとって物理的な距離だけでなく心理的な距離もあるのかも知れません。

 冒頭の聖句には、エルサレムを山脈が囲んでいるとあります。パレスチナは、ヨルダン川を挟んで並行するように西側と東側に山脈が南北に連なっています。その中にエルサレムはありますので、囲まれていると記したのでしょう。そのように神がご自分の民を囲んでいるといいます。この次の節にはその理由が記されています。一つは悪の杖が正しい人の割り当て地の上にとどまることがないように。もう一つは、正しい人が不正なことに手を伸ばさないようにするため、とあります。悪の侵入を防ぎ、また、悪への誘惑を絶つためということでしょう。柵ではなく山ですから、越えようと思えば越えられます。実際、人の行き来の制限は難しいですから様々な誘惑、価値観が入り込んできました。

 現在は、ネットで世界とつながる社会になりましたので、情報が簡単に入手できます。でも有益な情報ばかりではありません。むしろ注意しなければならないものが多いように思います。面白可笑しい情報は気になりますが、私たちが刺激的な情報に感化されたとしても誰も責任を取ってくれません。

 主は、山々がいつまでも変わらない姿でそこにあるように、私たちが時代に流されず、教えの風に振り回されないように見守っていてくださいます。

 

2024年3月5日(火)更新

 

 

 

 

 

 

「主よ 今 私は何を待ち望みましょう。私の望みそれはあなたです。」

                          詩篇39篇7節

 ロシアによるウクライナ軍事侵攻から2年が過ぎました。戦争が始まった当初、侵攻理由が希薄に思えたので「あれで戦争が続けられるものなのか‥」と疑問でした。でも・・・・続いています。世界は、私が考えるよりも広くていろいろな人がいることを実感しました。この間、特にウクライナ側に兵士は勿論一般人を含めて多数の死者が生じ、また外国に逃れた難民の数は800万人にのぼるといわれます。その人たちにとって〝いろいろな考えがあるからな‥“で済むはずがありません。一方で私たちがどれだけ願っても停戦のために具体的な何かができるわけではありません。歯がゆさを感じますが当事者でないものの限界なのでしょうか。停戦、終結を願う私たちは、具体的に何を待ち望んだらよいのか考えてしまいます。

 冒頭の聖句は、作者が人生の終わりを意識する中で記されたものです。作者は、神を信じていたので、時には神から罪を取り扱われて自分のうちにある空しい部分を垣間見るときもありました。恐らく私たちは、人生の道のりのなかで誇れるようなこともあれば、責められても仕方ないようなこと、悔い改める必要があることもあると思います。それらをすべて自分で良いように評価したくなりますが、正しい評価は神がなさいます。この詩篇の作者は、最終的な望みは、自分がどう生きたか‥という自己評価ではなく、神が私の人生をどう思って下さるかにあると思ったようです。神は、私たちの心にあるもの、生き方の根底にあるものを知ってくださり評価してくださいます。短い人生でも、波乱万丈な人生でも、晩年がどのようなものであったとしても、神が望みである人は、やがて訪れる〝神の前に立つとき“が楽しみになるでしょう。

 

2024年2月27日()更新

 

 

 

 

「自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえも白くも黒くもできないのですから。」                                                                                                                                      マタイの福音書536

 何かの原因で膝に(人工関節手術後)炎症が生じると、数日間腫れて痛みに悩まされます。そこで痛み止め薬を飲む以外に何か対策はないか・・とネットで情報を探したところ、「砂糖の摂りすぎは、炎症を招く・・」とあったので二週間ほど試してみることにしました。すべての砂糖を断つことは現実的ではありませんので、チョコや飴など砂糖が入ったお菓子を止めることにしました。食事には、砂糖を使用した料理が結構ありますので、お菓子を止めたからといって困ることはありません。

おやつとして柿の種やナッツ類など食べました。習慣でしょうか、10日も経つとやはり甘いものが食べたくなってきました。カカオ70パーセントのチョコを見た時には、〝こんなにカカオが入っているならお菓子というより食品ではないか・・“と思いたくなりました。最近は、金時豆を煮ようかと思っています(小豆豆類はよく自分で作る)。金時豆は、おかずであってお菓子ではありません・・・。でも、どこかごまかしているような後ろめたさがあって、まだためらっています。

 私は神にかけて「砂糖断ち」を誓ったわけではありませんが、当時のユダヤ人は、神にかけて誓うなら絶対守らなければならないが、それ以外なら誓ったことが途中で反故にされたり、うやむやになってしまったとしても、それは責任を問われないと考えたようです。冒頭の聖句は、〝自分の頭”とあるように頭にかけて誓った人がいました。でもイエスは、自分で白髪にも黒髪にもできない頭に向かって誓ったところで、何の意味があるかといいます。誓うというのは、自分より大きな存在に対してするものであり、それが果たされなければ、咎められたり責めを負うからこそ誓いの意味があります。では何故人は誓うのでしょう・・・恐らく、本気なんだ、真剣なんだというアピールなのではないでしょうか。だとすれば、聞かされる人は慣れてしまいます。〝誓う”という一見立派な行為が、逆にその人のことばの不誠実さを表してしまいます。

 普段、誠実に生きているなら「やります。できません。」普通のことばで十分誠意は相手に伝わるものです。

2023年2月20日(火)更新

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(かま)や、鍬(くわ)、三又の矛(ほこ)、斧、突き棒を直すのに、料金は1ピムであった。

                            Ⅰサムエル記13:21

 いつ買ったものなのかよく覚えていないのですが自宅の掃除機が壊れました。充電式で吸い込み口に回転ブラシがついているタイプですが、回転しなくなったのです。私も休みの日などに掃除機をかけますので、ある日、あれ?吸い込み悪いな・・とよく見たら、先端のブラシが回転していません。ただ吸い込みの邪魔をしている状態でした。そもそも高額な商品ではないので、修理に出すより別のものを購入する可能性が高いのですが、それなら壊れても構わない・・と回転ブラシ部分を分解してみました。すると本体からの配線が切断していることがわかりました。可動域の部分でしたから負担が限界に達したのでしょう。家電を分解すると感動することがよくあります。今回も、この僅かな部品の隙間によく二本の線を通したな・・・と驚きました。さすがに切れた線を5mm延長して半田付けして元の状態に戻すことは、私には出来ませんので、配線を一旦外に出して、また戻すという簡単な修理にしました。ですが見た目がとても変です(下部写真参照)。でも、これで以前と同じ様に使えるようになりました。私は一人悦に入っていたのですが、妻は「次はコード式にしようかな・・」と新しい掃除機が欲しかったようでした。そういえばコードレスの割に重い・・と言っていました。「直ったの!」のリアクションがいつもより低かったのもうなずけました。

 さて冒頭の聖句は、旧約聖書の中の一節で、当時農具を修理するのにそれなりの費用がかかったことが記されています。壊れた農具を修理するのは当時鍛冶屋の仕事でしたが、当時のイスラエルは鍛冶屋を営むことが困難な事情がありました。西の勢力であるペリシテが、イスラエル(ヘブル人)が剣や槍(やり)を製造して抵抗したり、攻撃されたりすることを恐れて作らせないよいにしていたからです。それで、修理が必要な時は、ペリシテまで行かなければなりませんでした。農業に従事する人にとってこれは大変な負担です。ペリシテには、大男の種族もいましたので、そう簡単に現状を変えることはできませんでした。

 神は、争いが絶えないこの地に平和を回復するために一人の王を立てます。でもその回復の道も簡単ではありませんでしたし、時間もかかりました。平和とは、剣で血が流れないだけでなく、子どもが子どもらしく遊ぶことができ、農夫をはじめ様々な業種が本来の作業に安心して専念できることではないかと思います。

2024年2月13日(火)更新

 

 「わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」 

                                    マタイの福音書25:36

 立春も過ぎて、暦の上では春を身近に感じる季節になりましたが、道内はもうしばらく寒い日が続きます。私は今、教会の事務室で(牧師室はない)パソコンのキーボードに触れていますが、指先が凍傷になりそうです。室温-4度ですから仕方ありません。あまりの冷えに作業を一時中断しました・・・。いつもはストーブをタイマーセットしているのですが、月曜日はお休みを頂いているので火曜日は教会に来てからスイッチを入れます。年に数回、寒さに耐えれば良いことなのでそれほど苦ではありません。室温が少しずつ上昇して+10度位になると”すごく暖かく感じる”から不思議です。

 冒頭の聖句は、イエスが羊とやぎ選別の中で語られたものです。祝福された羊、御国を受け継ぐものとされた人たちは、弱く小さな者たちが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときには飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸のときには服を着せ・・・と見返りを求めない隠れた善行をしてたと言います。冒頭に〝わたしが・・・”とあるように、最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです(40)と記しています。それらの行為はイエスに対してなされたのだとみなされたのです。

 ウクライナの戦地でも能登半島の被災地でも厳しい冬を着の身着のままで過ごさなければならない人たちがいます。私たちは、直接何かを届けることはできませんが義援金、募金等何かの形で思いを伝えることはできるでしょう。冷える体に一枚の毛布があれば、一杯の暖かいスープがあれば・・自分が受ける側に立つことができれば、そんなに構えず自然に出来るかも知れません。そんな思いで行動することができるなら、たとえ小さな行為であってもとても大きな価値があります。

 

2024年2月6日(火)更新

 

 

 

 

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」                                                                                                                                        マタイの福音書7章12節

 

 私は子どもの頃、父から〝やられたらやり返せ“と言われました。どんな状況でかけられた言葉か思い出せないのですが、二人の姉の下、末っ子として育った私は、父から見て不甲斐ないところがあったのでしょう。

 ❝やられたらやりかえせ❞は、一般的ではないかと思いますが❝人からされて嫌なことは、自分もしない❞は、恐らく皆さん子ども時代に親から言われ、その後も意識していることではないかと思います。皆がそのとおりしてくれれば良いのですが現実はそうではありません。もしかすると「されて嫌なこと」を他の人にすることでうっぷんを晴らすのか、そもそも「されて嫌なこと」とは何かがわからない人がいるのかも知れません。

 冒頭の聖句は、イエスが語られたものです。人からされて嬉しいこと、人にしてもらいたい事なら容易に思いつくのではないでしょうか。心のこもった言葉や支援、辛いときにはそっと見守る距離感、失敗は責めずに次に期待してほしい・・・総じて言えば、ありのままの私を受け入れてほしい、欲を言えば愛してほしいということになるのではないかと思います。それを他の人にしなさい・・・というのですから、もしできたら何という素晴らしい世界になるでしょうか。でも、現実はそうではありません。わかっていながら・・・できないというところでしょうか。

「これが律法と預言者です。」は、旧約聖書を要約した表現で、イエスが別のところで〝心から神を愛すること〟と〝自分自身のように隣人を愛すること“この二つを大事な戒めとして取り上げたことに共通しています。神の教えは昔から変わっていないということでしょう。

 神は、私たちが互いに愛し合うことを願っている・・・のではなく命じています。私たちにとってこの世界が生きづらいものとなっているなら、自己主張ばかりで愛すべき他者が存在しない人が増えたのかも知れません。もしそうなら孤独な人も増えたことになります。自分と同じように他者を見ることは確かに容易ではありません。そもそも考え方も育った背景も異なるはずです。それでも共通の何かを模索することはできます。まずはそこから始めてみるのが良いでしょう。神は、出来ないことを責めるお方ではなく、遜って前に進もうとする人を応援してくださいます。

 

2024年1月30日()更新

 

 

 

 

 

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

                     ヨハネの福音書8章32

 

安倍元首相銃撃事件(2022)に端を発して、某宗教団体が注目されるようになりました。親が熱心な信者で子どもが生きづらさを抱えている状況を宗教二世としてメディアが取り上げていました。かつて輸血問題で話題になった宗教団体も含まれていました。私たちには「信教の自由」という権利があり宗教への参加は自由で強制もされないはずです。現状は異なっていても外から意見するのは、余程の事がない限り憚られます。

 あるドキュメンタリー番組で、母親が宗教活動に熱心で子どものバイト代も献金され家は貧しく辛かったと二世は語りました。別の親子は、息子さんが何を言っても聞かない母親でしたが、息子さんの〝うちは幸せじゃないよね〟のことばに、これまで幸せになろうと頑張ってきたのに、そうでない現実を認めざるを得ずお母さんは疑問を感じるようになります。後、脱会に至りました。

 何も信じるものがないより、あったほうが良いと思いますが、どうせなら確かなものを信じたいと思います。でも人は、真実だから信じるというより、信じたものを真理と思うようです。視野が狭くなった中で与えられた機会、関係は特別視しやすいこともあるでしょう。

 冒頭の聖句は、イエスが語られたものです。「真理」に言及するのは哲学か宗教でしょう。辞書は真理を〝誰も否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実〟と説明しています。一方聖書の原語は、真理、真相、本当、実際の意味があります。人の思索探求の産物ではなく、手に触れたり実感できるものだといいます。イエスは「わたしは真理であり・・」と言われました。大胆な発言です。〝真理を知っている〟と宗教を興す人は多くいますが、自分が真理だと言った人はいませんし、言えばいつかぼろが出るからです。

 信仰を持つと束縛されるのでは・・と思う方がいます。真理でないものを真理と思い込むと視野が狭くなり、ますます不自由になります。イエスの十字架と復活の事実は、私たちが様々な束縛から解放されて自由になることを意味します。聖書の別の箇所ではこれを〝たましいの安らぎ〟と記しています。真理とは何か・・学ぶというよりへりくだって心の目で見ることにより見えてくるものかも知れません。真理は私たちの人生を豊かに、また確かなものにするでしょう。

 

2024年1月23日(火)更新

 

 

 

 

「するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、」

                       使徒の働き918

 

  東京上野の美術館に「カラバッジョ特別展」を観に行ったのは、三十代前半の時でした。宗教画に興味を持ち、自分でも描いていましたが、この時初めて自分の背よりも大きな絵の前に立ち、作者の情熱と意図を感じました。それまで本や映像で知っていた世界に、一歩足を踏み入れたような感覚でした。

長女が生まれたとき、初めての育児で疲れていた妻の負担を減らそうと、私は積極的に家事に参加しました。もともと料理は好きな方でしたから苦になりませんでした。ところがあるとき〝子ども見ていてくれない〟と妻。私が台所に立つよりも妻が自分の時間を持つことを望んでいることがわかり、その日を境に子どもへの関わり方が変わりました。それまで、わからなかったこと、見えていなかったものが見えるようになったとき〝目から鱗・・・〟といいます。

 「目から鱗」の出典は、冒頭の聖句になります。サウロは、新約聖書に含まれる手紙を複数書いた伝道者ですが、元々キリスト者を迫害する熱心なユダヤ教徒でした。彼は、十字架につけられたイエスを、神を冒涜する偽救世主と決めつけイエスを信じる人がいれば、家に押し入って男女を問わず引きずり出して容赦なく牢に入れていました。そんな彼に転機が訪れます。

 ある日、いつもように迫害しようと北に向かう道で、突然天からの光に照らされ「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」の声を聞きます。「主よあなたはどなたですか」の問いに対して「わたしは、あなたが迫害しているイエスである・・・」の返答に彼は衝撃を受けてしまいます。その後、サウロは、目を開けていたものの何も見えず、三日間飲食をしませんでした。ショックで何も手に付かなかったのでしょう。その後、神から遣わされた人によって祈られ、サウロは再び見えるようになります。以前とは、ものの見え方が大きく変わりました。

 

 小さな気づきは、日常しばしば起こります。人生を変える大きな転機は、自分からではなく与えられるものです。目が開かれる・・・というではありませんか。

2024年1月16日(火)更新

 

 

 

 

「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」                マタイの福音書7章2節

 杖を使うようになり、また、安静にしている効果もあるでしょう。膝の痛みが少し緩和され、少しずつ動けるようになってきました。何から何まで妻の助けを受けていましたので、その都度、「ありがとう。助かるよ」というと妻があるとき「私もしてもらったから」と言ったので、照れ臭くなった私は「そうだな、弁当は作るし(毎回でない)、食器の片付けもするし、肩もみもするからな(頭痛対策)・・・」といつものように軽く返すと「自分で言うかな・・・」とあきれ顔の妻、私は、返しを間違え、気まずくなりまりました。

 家族に何かするとしても、それは家族としてできることをしているだけのことなので、誇るようなものではありません。私たちは、してあげる立場から、してもらう側に、その逆になることもあります。”お互い様”は、まず家族の中で体験することなのかも知れません。

 

 冒頭の聖句は、イエスが語られたもので、前節には、「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」とあります。”さばく”とは、人の善悪を判断する裁判官のようにふるまうことです。もちろん、自分の価値観、倫理観に従って判断し行動することは必要なことですが、その判断は必ずしも正しいとは限りません。そもそも自分には甘く、人には厳しいのが私たちの本質ではないでしょうか。これは、家族にも他者との関係の中にも見られるものです。

人をどのように判断するか、その基準の枡(マス)が小さければ、何度も量らなければなりませんし、枡から溢れるものあります。枡が大きければ、一回で大体このくらいと量ることができます。001mmまで測れるノギスなら正確な長さを計測できますが、親指と人差し指で約19㎝と測ることもできます。自分は、おおらかに受け入れて欲しいのに、人は、細かく計測するのは身勝手ではないでしょうか。イエスは、”あなたが量る秤で量られる”と言いました。聖書の別の個所では、”与える者に・・与えられ・・・気前よく量って懐に入れてもらえます”とあって、人を寛容に受け入れ、誠実をもって関わるとき、自分もそう受け入れられ、誠実な関係が与えられるといっているようです。もちろん、いろいろな人がいますから全員とそうなるとは言えませんが、少なくても自分が持っている枡(マス)がどのようなものかがわかれば、他者との関係も変わるのではないでしょうか。

 神は、私たちのあら捜しをするようことはなさらず、受けれて下さいます。人がまるで神であるかのように人を裁くことは、勘違いと愚かさの結果であることがわかります。

2024年1月9日(火)更新

 

 

 

 

 

 

 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」

                                            コリント人への手紙第二418

 

2024年元旦の夜、私は膝の痛みで歩けず、テーブルや食器棚に手を置いてやっと移動していました。20222月に膝の人工関節の手術を受けたのですが、痛みがとれず、その後も不定期に痛み止めを飲んでいました。ところが、調子づいて除雪をしたせいか二三日前から膝がひどく痛み出し、元日の夜には、痛みで歩けなくなってしまったのです。病院は休みです。受診しても恐らく痛み止めの薬が変わるくらいでしょう。以前から、痛みがとれなければ、再手術を考えていましたから、元旦からとても憂鬱でした。水を飲むのも、食器を片付けるのも自分で動けないので全て妻の助けを借りました。翌日、妻に杖を買ってきてもらい少し動けるようになりホッとしましたが、片手しか使えません。これから先のことはわかりませんが、この状況に慣れなければ・・・と気持ちを新たにしました。

冒頭の聖句は、私たちの肉体が衰えていく中で、内なる人(内面の人間性、霊的人格)は、かえって新しくされることを伝えています。

 私は、半月板、前十字靭帯等、膝の手術を何度も受けているので、40代からスポーツは諦めていますが、それでも60半ばで杖を使うようになるとは思いませんでした。出来ていたことが出来なくなる・・・落胆しない人は、いないでしょう。  

 若さが一時的であることは、だれもが認めるものですが、聖書は、見えるものすべてが一時的であるといいます。長くて100年ほどの人生は、労苦も栄光もあるでしょう。でも、総じていえば、悩み、苦難が多いのではないでしょうか。しかも晩年は、例外なく、老い、死と向き合わなければなりません。見えるものは、やがて見えなくなります。私たちは、見えるものを意識せずには、生きられませんが、見えるものだけに目を留めていたのでは、いつか先がなくなるのです。

 聖書が見えないもの・・・というとき、イエスの復活と信仰に関係しています。永遠に続くものに目を留めるとき、朽ちていくものは、それほど気にならなくなります。

  今年一年があなたにとって良い一年となりますように!

2024年1月3日(水)更新

 

 

 

「男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」ルカの福音書2章7節

 

 チャールズ・ディケンズ(1812-1870・英国)の「クリスマス・キャロル」には、強欲な守銭奴スクルージが登場します。三人のクリスマスの霊によってスクルージの過去、現在、未来の様子が映し出され、彼の人生が変わっていくのですが、物語の中で現在のクリスマスの霊が見せる場面が印象的です。大男が部屋の中央にうずたかく山となった肉類、特大のケーキ、オレンジ、リンゴ等々、部屋中甘い香りが満ちる中で大男が長椅子でくつろいでいるのです。今日のクリスマスが豊かと繁栄を楽しむ行事になっているということでしょうか。作者にそのような意図があるのかないのかよくわかりませんが、クリスマスといえば、パーティーや豪華なディナーを想像するなら少し違う視点を持ってよいでしょう。ディケンズは、身なりがみすぼらしく、取り立ててどうということもない家族が満ち足りて和気あいあいとクリスマスの食事を楽しむ様子も描いています。

 田舎で育った私は、子ども時代クリスマスが楽しい行事だった記憶があまりありません。西洋のお祭りという感覚だったのでしょうか。それで寂しい思いをしたことはありませんが、大人になってクリスマスの意味が少しわかるようになって、キリスト教に興味を持つようになりました。

 

 冒頭の聖句は、イエス・キリストが生まれた時の聖書の記述です。当時勅令が出され、自分の町に帰って住民登録をしなければならなりませんでした。ヨセフは、妻マリアが臨月だったにも関わらず、長旅をしました。しかし宿屋がいっぱいで部屋をとることができず、やむを得ず家畜小屋で出産をすることになります。それで生まれた幼子は飼葉桶に寝かせられることになりました。御使いによって預言され、神の聖なるいのちとして生まれた割には、ひっそりしているどころか、不衛生で劣悪な環境といえましょう。でもそこに羊の群れの夜番で野宿をしていた羊飼いたちが駆け付けます。彼らは、神の使いから「救い主誕生」の知らせを聞いて、本当かどうか確かめようと捜して辿りついたのです。羊飼いたちは、飼葉桶の幼子イエスを見てよろこび、神をあがめ、讃美しながら帰ったと聖書にあります。クリスマスの原点は、ここにあります。クリスマスを誰と過ごすか、どんな料理を頂くは、大事なことではありません。最初のクリスマスは、豪華な食事も贈り物もなく、ただ神の救いを喜び味わう素朴なものでした。

 神が救い主を送られたのに、救い主は、世から無視され居場所がありませんでした。その後、イエス暗殺計画が明らかになり、それを避けるために両親は、幼子を抱えて隣国に逃げなければならない時もありました。イエスを育てたヨセフもマリアも裕福ではなく、むしろ貧しい家庭でした。それでも彼らには、神の守りと祝福があったので平和で穏やかな日常がありました。

 華やかなクリスマスが悪いわけではありません。星に導かれて幼子イエスを探し当てた東方の博士たちは、裕福な人たちでした。彼らは、黄金、乳香、没薬を持参して贈り物として献げたと書かれています。

 豊かな人も貧しい人も、それぞれの仕方で救い主の誕生を喜び、お祝いすることが、本当のクリスマスになります。

 

2023年12月26日(火)更新

 

 

 たまたまプブリウスの父が、発熱と下痢で苦しんで床についてた。パウロはその人のところに行って、彼に手を置いて祈り、癒した。   使徒の働き28章8節

 数十年ぶりだと思います。38度を超える発熱で三日ほど寝込みました。喉もヒリヒリ痛み、ピーク時は唾を飲み込むのも辛く、くりゃみや咳をしようものなら、痛くて思わずウヴぁ~と悲鳴めいた声が漏れました。新型コロナウイルスに感染したのです。ワクチンは、三回打っています。それ以後受けていないのは、感染しないと高をくくっていたわけではなく、ワクチン陰謀論を信じたわけでもなく、ただキリがないのではないか・・・といった漠然とした理由からでした。

 私のまわりにも罹った人はいますが、症状が軽く済んだ人と大分つらかった人とやはり個人差があるようです。発熱自体が珍しい私としては、頭痛やひどい倦怠感に加えて心房細動の症状も出てしまい、重い方だったのではないかと思います。ちなみにコロナ感染によって心房細動を発症するリスクは高まり、併合だと死亡のリスクも高まると報告されています。どうりで病院でコロナ陽性が診断された際、基礎疾患があるのでとウィルスの増殖を抑える薬を処方されたわけです(9千円は痛い)。

 治療のために私にできることは、神にあわれみを求めて、頂いた薬を飲んで寝て休むことだけです。

 冒頭の聖句は、伝道者パウロが乗った船が難破し、漂着したマルタ島での出来事です。島の長官プブリウスという名の人の所有地で過ごすことができたパウロは、長官の父親が病んで床についていたことを知って彼を癒してあげました。病の詳しい描写はありませんので、どんな病であるか推測の域をでませんが、よく下痢をする私としては、下痢は辛い、発熱も辛いということだけはわかります。それが癒されたのですからその喜びはどれほどだったでしょう。

 この癒しは、病人から懇願されたのではななく、気が付いたパウロの方から向かって行ったようです。

 今も回復が困難な病は沢山ありますし、癒しを神に祈っている方も大勢いると思います。神は、一人一人の病をご覧になり、ある人のところには、御使いを遣わし、ある人のところには、人を遣わし、ある人のところには、聖霊を遣わしておられるように思います。私も今回、倦怠感と頭痛と不整脈による不快な時間のなかにあって、主の御手の中にいるような感覚を覚えました。病の中でしか気づけないことがあります。健康のありがたさだけでなく、神のあわれみもその一つなのかも知れません。

 ※ちなみに私の回復と妻の感染が絶妙なタイミングでなされ、昨日より世話人役が入れ替わりました。

2023年12月19日(火)更新

 

 

 

 

 

 

"イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」"マタイの福音書 4 4

 

 妻がパン好きなこともあって、朝食はパンが定番です。玉子焼きなどもありますが6枚切り食パン一枚だと物足りなくて、ご飯も少し食べる事があります。たぶん食べ過ぎです。自分でパンを焼くこともあります。子どもたちがいた時は、食パンの型を購入したり、天然酵母パンも作ってみました。膝を悪くしてから生地をこねるのを餅つき機に任せたところ、“美味しくなった”と評判で、手ごね時代の不十分さが明らかになってちょっと複雑な気持です。

 人はパンだけで生きるのではない‥と聞いて、そうだ、副菜、おかずも果物も必要だという人は、さすがにいないと思います。これは食生活の話ではなく、生き方について語ったものです。

 人は、食べ物さえあれば、人として成長できるわけではありません。周囲の人、友人などから信頼、友愛など与えられ受容を学んで人として成長します。これらは物ではないので見えませんが、言葉や態度で知ることが出来ます。

 冒頭の聖句は、イエスが荒野で悪魔の試みを受けたときのものです。断食で空腹だったイエスに悪魔は「あなたが神の子なら、これらの石をパンになるように命じなさい」と言います。あなたは特別な力があるのだから、それくらいしたらどうだということでしょう。食欲は、人の自然な欲求の一つですから、イエスが神の子として行動する上で何か一つでも汚点になるようなことをするように、悪魔は期待したわけです。ところがイエスは、冒頭のように答えました。

 旧約聖書は、荒野を放浪した民に神が天からパンを与えた事を記しています。「神の口から出る・・ことばで生きる。」は、その民に与えた神のことば、諭しの数々を指しています。旧約聖書からの引用なので『』にくくられています。

 実際私たちは、パンがなければ生きることはできません。ですからイエスは、“だけで生きるのではなく”と言われました。確かに勉強だけしていればよいわけではなく、健康だけを求めても、お金だけあっても・・・望むような人生を送ることは難しいものです。

 今日、私たちに対する誘惑は、自分の知識や経験だけに頼るように誘われているのかも知れません。あるいは、逆に何も正解はないのだと。誘惑は、どんな状況でも起こります。誘惑に負けてその後の人生が変わってしまうこともあります。聖書には、誘惑に負けた人も退けた人も出てきます。自分を過信せず、謙遜であることが誘惑に対処する最も良い方法でしょう。神のことばである聖書を開けば、人生を導く金言と出会うでしょう。食べ物があって健康であることを感謝するだけでなく、受け入れられ、愛され、生かされていることに心から感謝が生まれるようになると思います。

 

2023年12月12日(火)更新

 

 

 

 

「傷もなくけがれもない 子羊のようなキリストの、尊い 血によったのです。」

ペテロ1:19

 昨年買ったポインセチアは、その後、剪定しておいたので、今年の春には、芽が出て枝を伸ばしました。今年のクリスマスに講壇を飾ることを夢見て9月下旬から遮光(日照時間を抑制して苞部分を赤くする)しました。一か月以上続けましたが、上部のほんのわずかしか赤くなりませんでした。しかも想定したよりも木が大きくなってしまいました。折角一年かけて育てたので、何とか使いたかったのですが・・・・あきらめて新しいポインセチアを購入しました。※写真の右側が購入したもの違いは一目瞭然!

 この時期、鉢植えのポインセチアの赤は、とても目立ちます。この綺麗な赤色の為にプロの技術と知恵があるのだと改めて思いました。

 ところで、クリスマスの時期になると赤と緑、金色をよく目にしますが、赤が血を表していることは、多くの方がご存じなのではないかと思います。今は、大概のことはネットで調べられるので便利です。クリスマスの赤は、キリストの血を表したものですが、幼子イエスの誕生の喜びと、むち打たれ、十字架刑で流れた血が結びつかない方がいるかも知れません。

 冒頭の聖句は、古い生き方から新しい生き方に変えられたことを説明している中の一節です。イエスの十字架が、神にささげられる傷のない家畜に重ねられてています。傷のない犠牲の動物、以上に聖なる価値あるものとしてイエスが捧げられたから、私たちの罪が赦され、神に受け入れられ、聖なるものとして、私たちは全く新しく生きることができるようになったのだと説明します。 

 クリスマスは、誰にとっても人生、生き方が変わる大きな出来事といっても過言ではありません。

 

 

2023年12月5日(火)更新

 

 

 

 

 

 

「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」

ヘブル人への手紙7章25節 

牧師になる前の話です。大分前になりますが、消防士時代、埼玉県に一つある消防学校救助科で約一か月、救助の知識、技術等を習得する機会を頂きました。いわゆるレスキュー隊員になるための準備です。体力に自信のあった私は、訓練は苦ではなくやりがいのあるものでした。教官の「自分の命を守れない者は、人の命は救えない。」の激励に改めて自己鍛錬の決意をしたものです。火災、事故、災害など、救急隊員としても現場に向かいましたが、危機的状況から間一髪、要救助者を救い出したという記憶はありません。救急車内で心臓マッサージを何度も施しましたが、それで息を吹き返したケースは、他の隊員はありましたが、私はありませんでした。誰かの助けにはなったと思いますが、”救った”と言えるようなことはなかったと思います。ドラマチックなことはそうあるわけではないのかも知れません。

「救い」とは、困難な状況から解放されて、ホッとする状態といえるでしょう。

イエスの救いは、神と人間を隔てていた罪がゆるされて、神との関係が回復することを意味しますが、それは宗教的な救いで自分には関係ないと思うかもしれません。

 イエスは、貧しい大工の子としてマリヤから生まれます。成長したイエスは、貧しい人達、虐げられた人たちに寄り添い、病を癒す奇跡の力によって様々な苦しみからも人々を救いました。十字架で死なれたのは、人の罪が赦されるには、犠牲の血が流されなければならなかったからです(旧訳聖書)。しかも十字架には自ら進んで行かれました。病や差別に苦しみ、死を恐れ、愛されないことに苦しんだ人たちを、イエスの十字架は救ったのです。

 イエスの十字架を我がため と受け入れる人は、神に愛され、受け入れられています。この救いは、完全でその後も変わることがありません。イエスのとりなしが今なおなされているからです。

 

2023年11月28日(火)更新

 

 

 

 












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